宗研39


最近は、学校以外にいろいろな習い事をするのが普通のようで、
子供たちはすこぶる忙しい日々を送っていると聞く。
楽器に親しむことができたり、スポーツができたら、
それらは一生の財産になるに違いないが、
我が家はまったくの放任だったので、
小学校5年生まで、私は放課後の時間のすべてを遊び惚けていた。
あの膨大な時間を有効活用できていたら……と思わないでもないが、
過去を取り戻すことは残念ながらできない。
こんなことを思いながら死ぬであろう私は、
今度生まれてきたら何か習い事をすることになるかもしれない。
しかしそうやって膨大な時間を無駄に過ごしてきた私も……


とりあえず、中学に入ってから、
ある程度の時間キリストの教えを学ぶことができたのは幸運だった。
中学生の頃からイエスによる明確な行動指針を聞きながら育ったにもかかわらず、
私の人生が混乱に満ちたものだったことは否定のしようがなく、
残念ながらそれは、完全に悟りを啓くまで続くだろう。
いかなる教えも、本で読み、頭で理解しただけでは、
まだなにも分かっていないに等しい。
が、それでも、知っているのと知らないのとでは、
雲泥の差があることも事実である。
また、基本的に、西欧先進諸国はキリスト教文化を基盤としているので、
彼らと接するとき、その考え方の基礎を抑えておくのは悪いことではない。
こうして、さまざまな学科から芸術、スポーツ、宗教、哲学と、
われわれの学ぶことはほとんど無限にあるので、
どのようにしたら、それらをより効率的に学び、
より効果的に応用できるか、という話になってくる。
ヴェーダは、そのことに明確な答えを用意していて、
それはひとえに、個人の意識レベルに依存するという。
われわれが日々、瞑想する理由の一つはそこにあるのであって、
毎日瞑想する人と全然しない人とでは、まずもって勝負にならない。
私の長年の経験則である。


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