ブログ

前回のブログを書いてはや一年……。
これほど長きにわたってメルマガやプレマレター(紙媒体)のエッセイしか書かなかったのに、
それでもブログをお待ちしていますと言ってくださる方のメールが今朝も届いていて、
朝から感動してしまった。
私自身が物理的に時間が足りないと考えられたので、
その間、月二回行なっていた<プレマ・セミナー>を一回に減らしたところ、
それについては大変有り難い効果を享受することとなったわけだが、
だからその時間を本の執筆や医学の研究にそのまま向けられるようにはなろうはずもなく、
小さな人生の大きな荒波に相変わらず翻弄されている。
こんなことで一回の人生としてまとまった仕事が残せるのかと、ついつい不安にもなる。

最近、たまたま会員の方が、かつて私が客員講師をしていた大学病院に入院され、
お見舞いにいったついでに医局を訪ねてみた。
相も変わらず殺風景な医局の、構成人員はほぼ全員入れ替わっていて、
新人医師の(卵の)面接をしていた医局長も、新人も(当然)あまりに若く、
そういえばあの頃も、同じように漠然とした不安をもっていたことを思い出した。
当時、二つ目の博士号を得ていたものの、まるでそれに反比例でもするかのように、
「存在」についても「現象」についても、そのなんたるかを知る由もなく、
ただ人生に対する漠とした風景だけを見て生きていた。
その後、インドに渡り、処女作『理性のゆらぎ』を書いてはみたものの、
しかしその原稿を読んでくれた皆さんの反応は冷やかなことこの上なく、
不安はますます募っていったのであった。

それでもなんとかここまで歩を進めてこられたのは……
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大ホーマ

ブログをほとんど書けなくなって久しい。
なんとかしなければと思ってはいるのだが、
とりあえずどうにもならない。
本当は私自身の努力や工夫、意志の問題であることは間違いないのであるが、
それがままならないのが凡夫の哀しさである。
         
前回のブログをみれば、7月のインド巡礼旅行の直前に書いている。
このとき触れたクットララムの滝は、
その後、旅行に行ってその水を持ち帰り、何人かの方にお分けした。
すると、旅を共にした方のなかに篤志家がおられ、まことに有り難いことに、
ご自分の持ち帰られた水をきれいなボトルに小分けしてくださったので、
今、個人的にお目にかかる会員の皆さんには、この小ボトルをお渡ししている。

旅行から帰ってまだそれほどの月日は経たないが、
何しろクットララムの滝浴びも、訪れた寺院群も、
眼下にアラビア海を見下ろすアーユルヴェーダ・リゾートも、
すべてが私を含め、旅の参加者全員に深い感銘を与えた。
それに加えて、かつて行なった大ホーマ
「イェーハ・ダシャ・ルドラ・ヤーハム」をふたたび行なう必要があることなどから、
すでに次のインド巡礼旅行が企画されている。
というか、それは7月の旅行の際に、参加者の皆さんの間から、
「この次はさらにこうしたい」という形で、自然発生的に湧き出てきたものでもある。

今回は、南インドはトリヴァンドラムに入り、
まずはこの時期、水量豊富なクットララムの滝で身を清める。
地中から盛り上がり、聖者アガスティアがプージャを捧げたシヴァ・リンガムや、
前回、行くことがかなわなかった聖アガスティア寺院を今度こそは訪れ、
それからムルガ神の大聖地ティル・チェンドールに移動する。かつて、
『海がこの地に押し寄せてくるとき、わたしがこれを護る』とムルガ神が予言され、
あのスマトラ島沖の大津波で南インドの各地が洗われたとき,
実際に海が遠ざかったという伝説の大寺院である。

参加者全員で心を合わせ、ホーマを捧げた後、
コヴァラム・ビーチのアーユルヴェーダリゾートに移動、こちらで旅の後半を過ごす。
眼前に大海が展開し、南インド屈指といわれるこのリゾートで、三日間、
皆さんには本場のアーユルヴェーダ・マッサージに身も心も委ねていただくが、
その間に私は、
まだお話ししたことのない生命の秘密を少しだけ語らせていただこうと思う。
こうして日頃の日本での疲れ、というよりも、
これまでの人生の疲れをすっかり癒していただきたい。
このツアーの詳細はまだ決定していないものの、
現在、12月13日(土)出発、21日(日)帰国の予定で調整中で、
近々、詳細をお届けすることができると思われる。

ところで、明日7日の<プレマ・セミナー>は、
前回までで【バガヴァッド・ギーター】第6章がおおむね終わってきたので、
この章でクリシュナ神の語られた死後の世界について……
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聖クットララムの滝

一年以上前から準備して、
遠い、とおい未来のことだと思っていた第25回『大いなる生命と心のたび』は、
いよいよ出発が明後日に迫ってきた。
この旅に参加されるすべての方が、聖なるクットララムの滝を浴びることになるが、
ここへきて、一つのお勧めを思いついた。
もしよかったら、参加者の皆さんはそれぞれ、滝の水を持ち帰られたらどうかと私は思う。
実際、過去には、お体の具合の悪い方のために、
『瞑想の師はクットララムの滝に行き、聖なる水を日本に持ち帰らなければならない。
その水で、彼女は3回、沐浴をする。しかる後……』
といった記述が予言に出てきたこともある。
体調の悪い方も、そうでない方も、
こうして聖なる滝のプチ沐浴をすることが可能だ。
ペットボトルは、インドで売られているものはしばしば弱いので、
日本から持参するのが望ましい。
水を採取したら、キャップをしっかり閉め、水分をよく拭き取った上、
その部分をガムテープでぐるぐる巻きにして、スーツケースに入れる。

もう一つ、こちらのほうは人によってかなり好みが分かれると思うが、
見た目が気にならない方は、水泳で使うゴーグルを持参されるとよいかもしれない。
現地からの報告では、現在、滝の水量は豊富な模様で、
もしかしたらスリリングな滝浴びを堪能していただけるかもしれない。
その場合、ゴーグルがあるとよりいいだろうと私は想像するのだが、しかし、
私自身が過去、そうしていたわけではない。それに、
4、50人の日本人の一団が全員、ゴーグルをして滝浴びをしているというのも、
現地の人には異様に映るかもしれない。
とはいえ、水泳のゴーグルをお持ちでない方もたくさんおられるだろうし、
いくら旅先でもそんな格好はイヤ、という方も多いだろうから、
そのような景観となることを心配する必要はなかろうと思う。
水中で目を開けているのはちょっと……という方の、参考程度に。

この旅に行きたかったけれども、どうしても無理だった、という方を
たくさん存じあげている。
その皆さんのことは……
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『瞑想のヨーガ』

現在、通過中の【バガヴァッド・ギーター】第6章は、
『ディヤーナ・ヨーガ』すなわち、『瞑想のヨーガ』と称される。
その名のとおり、この章のなかで、
人間の意識の進化の最終段階について尊主クリシュナが語っているが、
準備をしながら、そのあまりの深遠さに、心打たれる。

前回予告したように……
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巡礼の路

かつて『大いなる生命と心のたび』で行ったサンティアゴ・デ・コンポステーラは、
キリスト教世界三大聖地の一つといわれるだけあって、
ヨーロッパ中のキリスト教徒の巡礼の的であり続けた。
その道のりは遠く、はるかで、
人びとは数カ月をかけ、徒歩でこれをたどる。
その道中には、巡礼の旅人を無料で泊めてくる教会や、敬虔な信徒の家がある一方で、
追剥や強盗、山賊も容赦なく出没し、
多くの人は身ぐるみをはがれ、または命を落としもしてきた。
そんなとき、正義の聖者ヤコブが現れて旅人を助けるかといえば、
そんなサイババの奇跡のようなことが起きようはずもなく、
あえなく旅人たちは行方不明となった。
その実、彼らは殺され、路の脇に捨てられたのだった。
それでも、過去1000年以上にわたり、
年間数百万という敬虔な老若男女がこの地を目指すのは、
いうまでもなく、それだけの力が聖地にも、聖者にもあるからである。

サンティアゴ・デ・コンポステーラがキリスト教世界の代表的な巡礼地なら、
聖サバリ山はヒンドゥ教世界のそれに当たる。
人びとが何カ月もかけて徒歩でこの地を目指すことも、
追剥や山賊が出没することも同じであるが、
こちらはそれにさらに輪をかけて過酷な旅となる。
人は、神々への贈り物を頭上に乗せ、裸足で聖地に向かう。
その途中、柔らかい布団やマットレスに眠ることは許されず、
朝夕には水で沐浴をし、肉食をせず、髭を剃らない。
荒々しい言葉づかいをすることは許されず、頭上の荷はずしりと重く、
それでもただひたすら、聖地を目指すのである。
そこにある神像がどんなに壮麗・巨大なものであるかを想像すると、
われわれは間違うことになる。
聖サバリ山にましますアイヤッパ神の神像はごく小さく、
それどころか、これを目にすることは普通はできない。
あれほど長期間にわたり、苦しみを経て到達しても、
多くの巡礼者は神像をチラリと見ることすらできないほど、
現地は人びとでごった返しているのである。
それでも一度、その神像の前に十数秒(くらいであろう)止まることのできた私は、
周囲の人びとのなりふり構わぬ祈りの激しさに圧倒された。
それは彼らの信仰の心、というよりも、
神々との間に交わされる“念”なのであった。

さて、1月12日のプージャの際に捧げたギーは、ココナッツの中に入り、
その後、われわれが選んだ一人の敬虔なインド人の頭上に乗って聖サバリ山に登った。
そうしてついに、そのギーをアイヤッパ神像におかけするということに成功し……
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アイヤッパ神への捧げ物

綱渡りのように緊迫した仕事が続き、ほとんどブログを更新できないまま、
年が明けてしまった。

明日12日は、【バガヴァッド・ギーター】の解説と<瞑想くらぶ>に続き、
アイヤッパ神に捧げるアイヤッパ・プージャを行なう。
ところで、たった今、読んだ女神サラスワティの指示により、
その際にギー・ココナッツを作ることになった。
ギー・ココナッツとは、ココナッツに穴を開けて中の果汁を取り出し、
その代わりにギー(精製バター)を入れて密封したものをいう。
(『神々の科学』p.168の写真参照)
人々は、これと米、コイン、その他をどっさり頭に載せて、
聖サバリ山に登るのである。

言うまでもなく、これを日本で作るのは、今回が初めてとなる。
明日12日の儀式でこれができたなら、翌13日、
予言の読み手はインドに帰国する。
そうして、さらにその翌日、彼か、または他のだれかが、
このギー・ココナッツを頭に載せ、聖サバリ山に登る旅に出ることになる。
1月14日、15日は、マカラ・サンクランティの大祝日であり、
聖サバリ山の頂上に神秘の炎が現れる日だ。
その日にぴったり合わせるように……
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11月23日

今から23年前の11月、
私は生れて初めてインドを訪れ、幸運にもサイババにお目にかかった。
そのときの模様は、『理性のゆらぎ』に詳しく書いたが、
その後、同じ月の同じような時期に、さまざまな出来事が起きてきた。

3年前の11月23日、会社を立ち上げた。
社名についてはさまざまな候補が出て、
ああでもない、こうでもないと決めあぐねていたが、
結局、予言の葉のなかにこうしなさい、という記述が出てきて決着した。
法的には、祝日に登記することができなかったので、
登記はその前日、平成22年11月22日とした。

当時、初めて会社を立ち上げるにあたっては、
郷里の父がずいぶんと心配した。
父にとっては、子供はいつまでも子供なのだ。
私事で恐縮だが、その2年後、つまり昨年の今頃、
父は、あと数週間生きてもおかしくないが、
しかし、今すぐ逝ってもおかしくないという、不安定な状況を迎えた。
郷里まで、新幹線で4時間かかることを、
それまでは有り難いと思っていたのに、初めてこれを苦に思った。
もし夜中に移動しなけばならなくなったとき、車を使ったらどうなるか、
朝まで待って新幹線で行くのとどちらが早いか、
セミナーや、瞑想講座の直前に亡くなったらどうするか、
あるいは『大いなる生命と心のたび』の間だったら……等々、
さまざまなことを考えた時期でもあった。

そうしていたところ、11月23日にセミナーが終わり、
サイババの降誕祭を兼ねたプージャが終わって、
ボランティアの皆さんと楽しく食事を済ませた後になって、
容体が急変したという報せが入った。
たとえ父が亡くなっても、
セミナーや瞑想講座を私が直前でキャンセルするとは思えなかったが……
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第100回

だれであれ、人がもし地上で100歳を迎えたならば、
それはまことにめでたいこととして祝われる。
年ごとに労苦を重ね、カルマの解消とダルマの達成にいそしみ、
人生のほとんどの務めを果たしてきたのだから、それも十分うなずける。

それと同じわけではもちろんないが、
先月、第100回を目前にして記念講演を行ない、
明日はいよいよ<プレマ・セミナー>自体の100回目となる。
先月の講演では、多くの方に聴きにきていただいたが、しかし時間の関係上、
話したいことの一部しか話せなくて、申し訳なく、また歯がゆい思いをした。
その続きは11月23日、サイババの誕生日にお話しさせていただくこととして、
明日の内容を勉強してみると、
まことに都合よく、【バガヴァッド・ギーター】のなかで、
クリシュナ神自身が瞑想の方法について述べた部分となっている。
長いながい聖典『マハーバーラタ』の、
その精髄としての【ギーター】のなかでも、
クリシュナ神が具体的に、どのような場所に、どのように座り、
どのような心もちで、どこを視て……などと瞑想指導をする箇所は……
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聖者アガスティア

若い男女が結婚すると、息子、娘をそれぞれに差し出した両親が次に口にすることは、
だいたい相場が決まっている。
『子供はいつつくるんだ?
 何人にするの……?』
最近の風潮は、そんなことは本人たちの勝手であり、
「余計なお世話よ!」という言葉が返ってきそうだ。

もちろん、個人個人に応じて優先されるべきダルマがあるというのが
ヴェーダのより普遍的な見解だ。
なので、ほとんどの聖者たちは結婚しなかったし、英雄や偉人にもそういう人は多い。
ところが、例外的に聖者アガスティアは結婚をしたらしい。
理由は、まさに上記のとおり。
聖者が子をもうけずにいたことで、なんと先祖が納得しなかったのである。
偉人や英雄も、親にとってはいつまでも子供であるように、
偉大すぎる聖者も、先祖にとってはやはり子孫の一人にすぎないということか……。

そこで早速、彼が行なったことは、やはり聖者にしかできないことであったが……
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雷神2

数週間前のある日、清々しい鎌倉巡礼から帰ってみると、
部屋に入るやそこが水浸しであることに気がつき、驚いた。
東京では、ゲリラ雷雨があったのだ。
いまだかつてないほど、床も、本も、家具たちも水浸しになっていたが、
不思議なことに【アガスティアの葉】関連の書類と神像は“無傷”であった。
なんだかそれも嬉しくて、私は心楽しく床を拭き始めた。
神々の王インドラは、またの名を雷神といい、自然界における雷雨を司る。
そのせいでもないだろうが、私は子どもの頃から雷雨が好きなのだ。

これまで、100回を数える<プレマ・セミナー>のなかで、
雷雨や台風でこれが中止になったことは一度もない。
雷雨のなか、自転車で会場に向かいながら、
本当に雷に打たれるのではないかと感じて心配になったことはあった。
たまたま近くを救急車が通り、私は束の間の安心感を得た。
ここで電撃に打たれても、すぐに救急車がいてくれると思ったのである。
それでもとにかく、私は無事に会場にたどり着き、
何事もなかったかのようにセミナーを行なってきた。
他に、セミナーの日に台風に直撃される、と思ったことも何度かあったが、
その都度、台風は逸れていき、“台風好き”の私には肩すかしであった。

9月1日(日)、満を持して『ペトロの信仰告白』の部分の解説をする。
2カ月前から準備をし、ブログにも予告していたように……
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