ギーター


神々と聖者たち、そして会員の皆さんと過ごした
限りなく密度の濃い期間が、   
今年もまた終わっていった。
心ときめくときであったが、
しかし同時に、心身ともに疲れ果てた。
数日は、事務仕事などしながらぼんやり過ごそうと思っていたのに、
なぜか現在解説中の【バガヴァッド・ギーター】第3章の文言が、
否応なく目に入ってきた。
『知識ある人も、自らの本性に沿って行動する
 万物はその本性に従う
 抑圧が、何になろうか……』(3・33)
「(先月取り上げたこの部分の)解説を聞いて人生観が変わった」と言われた方が、
何人かいた。
実際、人も、その他の生き物も、そして万物も、
いずれにしてもその本性にしたがって生きる。
良くも悪しくも、そうする他はない。結局のところ、
人は自分の意識レベルに応じた想念しか抱かず、
それに応じたことしか言えず、
それに応じたことしかできない。
それは、どうすることもできない事実だ。
しかし同時に、
われわれは意識の深いレベルに入っていって、
これを進化させ、そのレベルから思い、語り、行なうということもできる。
しかしでは……、


いったいどうやって意識を進化させていけばよいのか。
アルジュナも問う。
『そして人は、何に駆り立てられて罪を犯すのか、
 望みもしないのに
 まるで力ずくで強いられたように……』(3・36)
われわれを悪へと駆り立ててやまない“何か”を、
キリスト教は「原罪」と呼んだ。が、もちろん、
「原罪」という何かの実体がどこかにあるわけではない。
それでも、人は「何かに駆り立てられて」自然の法則を犯し、
その果実を享受する。
なぜなのか……。
それは実は、人間の五感と、その対象のなかに隠された神秘である。
おそらくはわれわれのすべてが子どもの頃より思い続けてきたこの問いが、
18日(日)の中心的な課題の一つとなる。


カテゴリー: ヴェーダ パーマリンク

コメントを残す