願いはかなえる


 カトリックの友人に、結婚して10年、子宝に恵まれなかった女性がいる(かりに、敬称なしでA子と呼ばせてもらおう)。
 いろいろ病院を回ってもだめで、ほとんどあきらめかけていたA子は、ある日仕事で四谷に行った。四谷駅前のイグナチオ教会は、当時改築されたばかりだった。その聖堂に入り、膝まづいて祈り始めようとしたときに、彼女は突然聞いた。『おまえの願いはかなえる』というイエスの声を。
 二ヶ月後、A子は本当に身籠もり、そこで初めて、私は事の次第を聞かされた。不思議だが、そんなこともあるかもしれない……そう思っていたところ、ほどなくしてふたたび、連絡があった。流産したという報せだった。A子は、受話器の向こうでむせび泣いた。
「こんなときこそ、信仰が試される」とは、よく言われる。しかし私は、そうは言わなかった。
「ぼくだったら、神さまに文句を言うな。あれは何だったんですかって」
「……」
「イエス様に言えないんなら、マリア様に言ったらいい。マリア様なら聞いてくれる」
 彼女が耐えて神を讃美し続けたのか、少しの愚痴を言ったのか……。多分、後者だろうと私は思う。自分なら、そうするだろうからだ。そして普通の人間なら、そうするだろうから。結果……A子はふたたび身籠もり、この2月、華奢な体に似合わぬ大きな女の子を産んだ。
 育児休暇中だといって電話してきたA子は、幸せそうだった。その幸せは、これまでの苦しみや哀しみを、すべて補って余りあるもののように見えた。


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