鬼才3


「当時、バレー部の女子は
 森田派と横田派(ヒロミかヒデキかというくらい)で
 盛り上がっていたものでした。
 私は猫田選手が好きだったなあ……」
という女性読者もいた。
こうして、「ミュンヘンへの道」は国民的熱気に包まれ、
男子バレーは金メダル確実と思われるようになっていった。
そして本当に、彼らは金メダルをとったのだった。
五輪後、もしとれなかったらどうしていたかと聞かれて、松平はこう答えた。
「そんなことがあれば、私は日本にはいられなかった……」
それは、大変なプレッシャーだったに違いない。
しかしそんなことは、実は松平には大したことではなかった。
それに先立つ64年、東京五輪で銅メダルを手にした直後、
彼は一人息子を事故で亡くしている。
小学5年生、まさに可愛い盛りであったろう。
「この世の中で一番辛いこと、一番怖いことはなんだと思う?
 それは自分の子供を亡くすことだよ。
 親にとって子どもを亡くすことほど怖いことはない。
 俺にはもう、これ以上なにも怖いものはないんだ」
あの遠藤先生追悼集会での経験からの推測にすぎないが……


もう怖いものは何もなく、
あれほどの立ち居振る舞いができるほどの強烈な個性がなければ、
おそらく「松平康隆」は成立しなかったに違いない。
たった160センチほどの小男が、
世界の大向こうをうならせるような大勝負を打ち続けたのだ。
「金メダルは、非常識の延長線上にしかない」と語った彼の非常識さに驚き、
ときには憤慨もしたかもしれない多くの人びとと共に、
心からご冥福を祈りたい。


This entry was posted in 人生. Bookmark the permalink.

コメントを残す