アダムの肋骨11


参拝中、もう一つ、心に強く浮かんだことがある。
それは、「体が不自由であること」についてだった。
この日、私自身が不自由な状態で伊勢にたどり着き、
神宮でのお勤めが完遂できるかどうか分からない状況に陥った。
完遂したとしても、常に痛みや、恐れとともに私はいた。
しかしいずれ、この巡礼は終わる。
その後、少々不自由な生活がひと月やひと月半は続くだろうが、
それは有限の長さだ。
ところが、生まれつき、または慢性的な不調に苦しむ人びとには、
そうした期限というものが見えない。
いつ果てるとも知れないことが、苦しみの大きな部分を占めるのである。
世の中に、数多くおられるそうした皆さんを、
いつまでもそんなことにさせておくわけにはいかないという気持ちが、
どこからともなく湧いてきていた。
それは、カルマの法則で決まるといえば、その通りかもしれない。
しかし人は、いつまで続くか知れないような体の苦しみに、
貴重な人生の時間を費やすべきではない。
そこから学ぶべきことが、確かにあるには違いない。
しかしもし生命が、常に幸福の拡大と深化を願うものであるならば……


その人びとの、そして私の願いは、かなうはずだ。
その方法があるはずだ。
ちょうど、インドで皮膚の不調に苦しんだとき、
皮膚病に苦しむ皆さんの苦しみが少しだけ理解できたときと同じように、
なぜか、そのような強い願望と確信が、私のなかに湧いてきた。


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