【ヨハネによる福音書】


思い返せば4年前、
新約聖書を東洋哲学の立場から、分かりやすく解説してほしいという声があり、
それほど深く考えることなくこれを始めた。
題材には、迷うことなく【ヨハネによる福音書】を選んだ。
「イエスに最も愛された」といわれるヨハネが、
『初めにことばあり
 ことばは神とともにあり
 ことばは神なりき……』
という、通常の人間では書き得ない深い記述から始めたイエス伝である。
ところが、初回は【ヨハネ】まで入らず、新約聖書全体の冒頭に出てくる
『アブラハムの子ダビデの子……』(マタイ 1・1)
の「アブラハム」の解説で終わった。
続いて、聖書全体の解説も行なった後、
やっと入った【ヨハネ】も、最初の1行の解説にまる一回を費やした。
果たして、これが終わるときは来るのだろうかとやや不安になっていたが、
途中から少しずつ要領を得て、明後日、14日の解説で完結する。
                  
実は、【ヨハネによる福音書】には、いわゆる『あとがき』が二度登場する。
すなわち、一度、筆者はこれを完結させたのであるが、
しかしその後にふたたび書きたいことがでてきて書き始め、
最後に二度目のあとがきを書いた。
最初のあとがきと最後のあとがきの間の部分は、
文体や語法が異なることから、
おそらく実際に筆をとって書いたのはヨハネではなく、
その弟子であったろうと推察されている。
しかしながら、その淡々とした筆致からは、
ヨハネ自身も書かなかったような深い哲学が醸しだされ、
ヨハネが書いたのではないからこそ初めて分かるヨハネの人がらや、
さらには……


その後の教会の正統性を担保するきわめて重要な記述がある。
折しも、4月に行く『大いなる生命と心のたび』では、
最後の晩餐で使われた聖杯、
イエスを十字架につけた釘、
十字架から降ろされた遺体を包み、
当時のイエスの姿が映し出された布等を拝礼するが、
数奇な経過をたどった一代の神人の生涯を完結させるものとしても重要な部分だ。
14日(日)にはそれらすべてを解説して、
【ヨハネによる福音書】最終回としたい。


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