アイヤッパ神 1


早いもので今年も残すところあと350日余り……
先日は京都で講演と<Art3>の講座を行なってきました。
新年早々、たおやかに意識の進化した皆さんと時間をともにすることができて、
こうしてたまにやってくる幸運に感謝することとなりました。
ところで、さらに新年早々、元旦に皆さまにお届けしたメールマガジン冒頭では、
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昨年末に私個人が行った巡礼の模様をご紹介しました。
その後多くの方からメールをいただいたが、一番多かったご質問は、
「その聖サバリ山に祀られている神さまは、どんな方?」
というものでした。
その昔、神々が阿修羅に打ち負かされそうになったとき、
神々に泣きつかれ、ヴィシュヌ神は考えました。
『この世のあらゆるよいものを集めて混ぜ合わせ、
不老不死のアムリタ(霊薬・甘露)を作ろう……』
そうしてできた甘露は、実はソーマ、すなわち、
瞑想中に私たちの内側で盛んに産生される精妙な物質に他なりません。
ところが、苦労の末に甘露ができた途端、
阿修羅たちがこれを横取りしようとしたので、
ヴィシュヌ神は自ら美女に姿を変えて阿修羅を幻惑し、
その間に神々が甘露を呑めるようにしました。
おかげで神々は不死の体を得ることとなりましたが、
しかしその際、一つの“事件”がおきました。
ヴィシュヌ神が姿を変えた女性はあまりといえばあまりの美しさだったため、
シヴァ神が恋に落ちました。
こうしてできたおこさまが、サバリマライに祀られているアイヤッパ神です。
ちなみに……


メルマガで配信したエッセイは、以下のようです。
【サバリマライへの旅】
毎年1月14日前後にやってくるマカラサンクランティの日、
インド亜大陸ではさまざまな奇跡が起きるといわれている。
そのうち最も有名なものは、「サバリマライの火」だ。
南インド、ケララ州にある聖サバリ山で、この夜、鷲が宙を舞う。
そうして、無人の山の頂上に炎が立つのである。
当日、寺院のある中腹まで人びとに埋めつくされるこの山に巡礼するのは、
インド人でもほとんど不可能といえる難事業だ。
だから多くの敬虔な人びとは、それよりも前、ひと月かふた月の間にこの山に登る。
そのためには、地元の寺院でココナッツに穴をあけ、
なかのジュースを神々に捧げた後、ギーを詰める。
同時に、周囲の人びとから巡礼者に託されたコインと米が袋に詰め込まれ、
ずっしりと重くなった袋を頭に載せて、神を讃えながら寺院の周囲を歩く。
これ以降、巡礼者は完全な菜食でいなければならない。
履物を履いてはならない。
髭を剃ることも許されない。
朝夕二回、沐浴しなければならないが、お湯を使ってはならない。
寝台や枕を使えず、床に木枕で寝なければならない。
秘境のような南インドの激辛カレーをいただく度、下痢をする。
悪い油で作られたものを食べる度、吐きそうになる。
今回、山に登るのはもはや無理かと諦めそうになる局面もあった。
そんな旅を続けながら、しかしなんとかしてサバリマライの麓まで着くと、
河で沐浴をし、少し生気が蘇る。
そうして夜中の12時、いよいよ登山が始まった。
だが、インド人には平気でも、日本人の私には、裸足で険しい山を登るのが難しい。
頭に掲げた袋にはギーの入った大きなココナッツと、
瞑想をお教えした皆さんのためのコイン、お米が満杯で、
小石が足に突き刺さる。
が、聖なる山の力か、聖なる河のおかげか、
一時はほとんど死んでいた私も午前3時には寺院のある山の中腹にたどり着いた。
しかしそこには、前日夕方から登ってきた人びとがすでに長蛇の列をなしていた。
うねるようにして曲がりくねった列の先頭は、遥かに見えない。
まさに長蛇だ。
彼らのすべてが、一目神像を拝まんとして待っている。
1時間、2時間が経ち、そして午前6時を過ぎてもなお、
列は寺院の前にたどり着かない。
もう6時間以上もズタ袋を載せた頭は、芯から痺れている。
東の空が白々としてきて朝日が昇った後、午前7時頃、
ついに私は、神像に至る18段の黄金の階段の前まで来た。
なかにはもうフラフラしている巡礼者たちを、左右から警察官が、
これまた必死の形相で引き上げる。
まるで大きな罪科に苦しむ人びとが、地獄の底から這い上がろうとしているようだ。
18段を登り切ると、やっと正面奥に神さまが鎮座ましますが、
これだけの大巡礼の的となるのはどんな巨大な神像かと思いきや、
高さほんの30センチほどのものだった。
が、それは、通常の人間の手によるものではあり得ない。
古の聖仙が、われわれの知らない方法で造ったその神像を一瞬目にしたと思ったとき、しかし私は後に続く人びとの流れに押し流されていた。
瞑想を教えたりしていると、ときに自分の予言の葉が出てきて、
こうした巡礼が課せられる。
昨年の7月、皆さんとチェンナイの空港で別れた後、
弟子入りしたシッダ医学の聖者は、
例年やってくる9月の微熱を、丸薬一つで防いでくれた。
だが予言には、その後、私は別の理由で体調を崩すと書かれていた。
そのとおり、私は苦しんでいたが、しかし年末には、
この困難な旅をしなければならないこともまた予言されていた。
食べ物が合わず、吐き気を催す度、
頭にはズタ袋が、足には小石が食い込み、痛みを感じる度、
自分や、瞑想を教えた皆さんのカルマが解消されていくことを感じた。
今まで私を導き、支え、または普通に接してきてくれた人たちに、
より大きな幸せがやって来るに違いないと、私は確信した。
しかしなかには、過去、私を手ひどく裏切っていった人もいた。
騙し、または陥れた人もいた。
そうした人たちは、どうなるのか。
その人たちにも、この巡礼の恩恵はもたらされるに違いない。
そのようなことを何度も想いながら最後に神像の前に出たとき、
それがたとえほんの一瞬であったとしても、
私の2008年が完結したと、私は思った。
新しい年を迎え、皆さまにはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
本年もよろしくお願いいたします。


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