五輪16


一昨日の<瞑想くらぶ>のとき、
相対世界を生きるなかで、
われわれがときに得ることのできる“小さな喜び”について、
例を挙げて説明した。
それはたとえば、東京オリンピックのとき、
芸術的に美しいクロールで4つの金メダルをとったドナルト・ショランダーや、
ミュンヘンで、がむしゃらに7つの金メダルをとったマーク・スピッツ、
今大会でさらにそれを上回ったマイケル・フェルプスのような場合が当てはまるかもしれない。
あるいは、二大会連続で、平泳ぎで2個ずつ金メダルをとって、
「なんも言えねぇ……」と絶句した北島康介のような場合もそうだろう。
いずれにしても、相対世界の、それぞれの小さな分野で成功することで、
人は一時的で、限定的な喜びを得ることができるが、
しかし、現象界の背後にある実在に近づいたり、
到達したときに得られる至福はその比ではない、
とうたわれたインドの詩の解説のために、たとえとして使った。
そうしたところ、これを聞いていた方からは、
以下のような興味深いコメントが寄せられたので、ご本人の承諾をとって、
ほぼ原文のままご紹介したい。
それは私にとっても、思い出に残るシーンの一つだが……


……(略)お話の中で、
オリンピックのショランダーやスピッツの名前が出てきました。
それを聞いてすぐピーンと来た人は少なかったでしょうね。
ピンときてしまった私は、ちょっと忘れかけてた、
裸足のゾーラ・バットを思い出しました。
1984年のロス五輪、3000M決勝でレース中にライバル選手
と接触し、メダル候補だったのに失速し7位くらいで終わりました。
ロス五輪の頃には会場に大スクリーンが設置されていたように思います。
その中にゾーラが並走していたデッカー選手?を足で引っ掛けてしまい
そのデッカーが倒れながら、ゾーラの背中のゼッケンを手でひきむしるという
練習してもこうはならないというシーンが映し出されました。
会場は一瞬の後ブーイングに包まれ、私もTVの前でそんな露骨なバッド!な
ことするんだと、決定的瞬間を目撃した気がしました。
そして今ならすぐ解析されてスローモーションの映像が流れるけれど
その当時は一日以上経ってから、ゾーラが故意にしたのではなく、
誰かと接触したはずみで足が横にでてしまったということが解りました。
私は「自分がしっかり見た」ということが、
いかにいい加減な事か思い知らされました。
たしか、彼女は母国(英国)から代表になれず、急遽南ア連邦から出場してきた
様に覚えています。それも悲しい事だったでしょうね。
会場がうなり声をたてるように、
そして私もいっしょに小さな彼女ひとりを目がけて非難していました。
そんな中でゾーラが、自ら走るのを止めたように見えました。
ホントに私は何を見てるんだか。。。。
デッカーも大きな怪我だったし、
ゾーラはどこでその後を暮らしているのかと思います。
私の”忘れられない思い出のオリンピック選手”ゾーラ・バットです。


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