聖典


1月20日から、瞑想をお教えした生徒さんと毎日3人ずつ、
極めて深い時間を共有している。
途中、広島に瞑想を教えにうかがったが、その日のうちに帰京し、
翌日からふたたび同じ作業に入った。
ときには互いの過去世を相照らすかのような、
そしてときには現在や、未来を共有するかのような感覚を得るのは、
彼や彼女らも同じなのだろうか……。
自由な時間があれば10分瞑想して5分で食事を済ませ、
個人的にいただくメールにもお返事が遅れてしまい大変申し訳ないが、
私自身は幸せだと感じている。
今日は初めて、少しの時間的余裕ができて、
聖書を読んだ。
11日に解説する部分は、新約・旧約のすべての聖書を通じて……


最も深い部分だ。
著者であるヨハネがいかなる意識状態にあったかについて、
われわれは推測するしかない。そしてそれは、
われわれの意識レベルに応じてしか、理解できないだろう。
すべての聖典がそうだ。
いかなる聖典も、これを読む側の意識レベルに応じてしか理解できない。
11日には、絶対と相対、それぞれのレベルに応じた、
【ヨハネによる福音書】冒頭の部分の異なる解釈について語りたい。
いつもと同じように、予備知識は要らない。
ユダヤ教、キリスト教を通じた膨大な聖典のなかの最高の部分を、
絶対のレベルと相対のレベルの両方について、
それぞれの皆さんに理解して帰っていただくつもりだ。


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