巡礼5

1552年、日本人神学生を連れてインドのゴアに戻ったザビエルは、
日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考えた。
同年、中国入国を目指した彼は、しかし入国のかなわぬまま、
心身ともに消耗し、病没する。
1552年12月2日、46歳であった。
なぜか遺体には、早く腐敗させるために石炭が蒔かれたが、
死後数ヶ月を経てもまったく腐敗しなかった。
多くの教会がザビエルの遺体の引き取りを望み、
あるとき、その右腕が切断された。すると、
亡くなって長期間が経過したにもかかわらず、そこから鮮血が流れたと語られる。
かつてローマのジェズ教会を巡礼した際、
われわれは教会堂のなか、高く掲げられるザビエルの右腕を拝礼することができた。
そこには、日本のキリシタン時代を描いた大きな画もあり、圧巻だった。
今回、ゴアのジェズ教会においては、その遺体そのものを拝礼することになる。
今年、『大いなる生命と心のたび』で初めてインドを訪れ、
多くの方が帰りたくない、もう一度、インドに行きたいと言ってくださった。
その一方で、キリスト教の聖地に行きたいという方もおられる。
インド4000万のキリスト教徒発祥の地であると同時に、
アジアで初めてキリスト教が芽生えた地、
そこからザビエルが日本を目指した地であるゴアに、
われわれは来年、巡礼する予定だ。
旅の日程は……

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巡礼4

インドのゴアに到達した後、
ザビエルはインドからマレー半島の古都マラッカに渡ったが、
1547年、そこで出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)であった。
ヤジロウの話を聞き、いまだキリスト教のまったく伝わっていなかった日本に赴きたいという気持ちを強くしたザビエルは、
1549年、日本に向けて出立する。
歴史に「もし」はないとしても、
仮にもし、ザビエルが貴族としての栄達を目指したならば……、
もしゴアに派遣されたのが他の司祭であったならば……、
もしザビエルがマラッカでヤジロウに出会っていなければ……、
日本にキリスト教が伝わるのははるか後のことになったに違いない。
そうして現在……

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巡礼3

ところで、24日の朝8時頃、
私が188福者の話をブログに書いていたちょうどその頃、
この列福式に参加するため長崎を訪れていた一人の方が、
私宛てにメールを書いていてくださっていた。
昔、『大いなる生命と心のたび』でキリスト教の聖地に何度かご一緒して以来、
ずっとキリスト教を学んでこられている方だ。
その方から、その日正午から行なわれた式の前後の写真が届き、
掲載させていただけることとなった。
(ペトロ岐部と187殉教者列福式)
ペトロ

式典会場
ペトロ2

ミサ形式の儀式の様子は
スクリーンにも映し出された

ペトロ3

祭壇の様子
hs

参列者は世界各国から約3万人
昔、秋田のマリア様のおられる聖体奉仕会が新聖堂を献堂されたとき、
記念式典にあずからせていただいたところ、
韓国からもたくさんの巡礼団がきておられた。
韓国人の信者で、秋田のマリア様の奇跡にあずかり、
病気が治癒した方がおられることが理由の一つであるが、
韓国では毎年百万人が洗礼を受けているともいわれる。
そこで、韓国からやはり巡礼団が来られましたか? と質問したところ、
以下のようなメールが式典後に届いた。
> 小雨降る中、韓国の司教様方をはじめ国外を含む三万人の信徒が参列されました。(神父様だけでも300人はいらしたそうです)
 祭壇の下にはそれぞれの殉教者ゆかりの地の土と聖遺物が奉納され、
 殉教者の生涯に思いをはせながら、約4時間にわたり列福の儀が行われました。
 列福式の前に今月17日にお亡くなりになられたイエズス会の結城神父のご助力を、 列聖列福準備委員会委員長であられる溝部司教様が謝辞の中でお話されました。
ところで、文中に登場する結城神父とは……

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巡礼2

日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルは、
1506年、スペイン・ナバラ地方に生まれた。
われわれが何度も巡礼したルルドからそう遠くないその故郷で、
一昨年には、生誕500年祭が盛大に祝われたことであろう。
ザビエルは貴族の家柄に生まれ、父親は王に仕える宰相だった。
が、ザビエルは聖職者であった叔父の影響を受け、聖職を志す。
19歳で名門パリ大学に進んだ彼は、
後にイエズス会を興すイグナチオ・ロヨラに出会い、大きな影響を受ける。
1534年8月15日、ザビエル、イグナチオら7人は、
パリはモンマルトルの丘で神に生涯を捧げる同志の誓いを立てた。
現在、カトリック世界でもっとも大きな影響力をもつ修道会となった
イエズス会の起こりである。
(かつてパリを巡礼した際、モンマルトルの丘のその場所を、われわれは訪れた)
1537年、ザビエルらは司祭に叙階されたが……

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巡礼1

日本のカトリック教会史上、初めてのことが本日の正午、行なわれる。
江戸幕府の弾圧で殉教したペトロ岐部以下、
188人が「福者」に列せられるのである。
福者とは、カトリックにおいては「聖人」に次ぐ尊崇の対象で、
たとえばマザー・テレサは福者である
(したがって、カトリック教会においては、
マザー・テレサを聖女と呼ぶことは、現時点では「間違い」とされる)。
過去にも、長崎で殉教した26聖人の列福、列聖はあったが、
日本国内で列福式が行なわれるのは初めてのことだ。
しかも、これだけの数の殉教者らが、同時に福者の位に上がる。
日本史の授業で習ったように、日本にキリスト教が入ってきたのは1549年。
フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した。
その日は8月15日で、聖母被昇天の祝日だった。
長い航海を経て日本に上陸した彼らは、果たして日付を正確に知っていて、
その日が聖母の祝日であることを知っていたであろうか。
それはともかく、おそらくザビエルらは、日本の蒸し暑さに驚き、
または苦しんだことであろう。
学者の推計によれば……

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癒し2

死者が蘇るという例は、われわれの日常生活のなかにもないわけではない。
医師の診断として、確かに亡くなったとされた人が、
葬儀の最中、棺桶のなかで苦しみ始め、結局出てきたという、
笑えない話が実際にある。
そうした場合、患者は仮死状態、または臨死状態にあり、
これが蘇生してきたと考えるのが今日では一般的だ。
イエスがラザロを蘇らせたのは、亡くなって4日も経っており、
すでに腐敗が始まっていたというから、
その場合には当てはまらないだろう。
同様に、そうした場合に当てはまりそうもない事例が、
他の聖者においてもあり得る。
たとえば、サティア・サイババに関連して……

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癒し1

福音書のなかには、イエスが行なった癒しの記述がさまざま見られる。
実際、2000年前にユダヤ・パレスチナ地方に現れたこの神人は、
ほとばしる愛の思いから、そして自らの顕現のため、
数多くの奇跡的癒しを行なったことであろう。
それらのなかでも特筆されるのは、
死者を蘇らせたという記述である。
イエスが教えを述べ伝えに出ているとき、
友人であるラザロが危篤に陥る。
家族からその知らせを受けたイエスは、しかしすぐに向かうことをせず、
ラザロが眠っていると弟子には言う。
そうしてラザロの許に帰ったときには、
すでに亡くなって4日が経っていた。
このときの遺族の心中は、察するに余りある。
見も知らぬ人びとを、
自らの危険に省みず、安息日にすら癒してきたイエスが、
なぜ、自分たちのときだけ救ってくださらなかったのか……。
実際、イエスに対し、そのようなことを家族は口にするのである。
ラザロの墓の前に立ったイエスは、心動かされ、
涙を流されたと福音書には書かれている。
その記述は、普遍の意識状態にありながらなお、
相対世界において日常の生活を送っていたイエスの人間性を端的に表すものなので、
私は好んで引用するが、
私たちの目指そうとしている意識レベルのひとつの事例として、
ヴェーダの認識論の立場から、
他の聖者の例と対比させながら、整理して解説したい。
また、実は聖書にはもう一カ所だけ……

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旅日記36

7月12日
インドに残りながら、
私の心は依然、ツアーから離れることができなかった。
飛行機はもう、チェンナイを発っただろうか……。
シンガポールに着いたころだろうか……。
チャンギ空港では、楽しんでおられるだろうか……。
成田に全員、無事に着かれただろうか……。
瞑想をお教えし、あるいは一緒に聖地を巡り、
そんなふうにして接した皆さんに対するこの愛しさはいったいなんなのか。
聖者は、私が瞑想を教える人たちも、
聖地を旅する人たちも、
予言をお読みする人たちも、
深いつながりがあってそうなると書いている。
しかしそれにしても、この胸の奥から湧き出るような、
苦しみにも似た愛着はいったい何か……。
先生

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旅日記35

7月11日-5
最後の豪華な夕食を、チェンナイ市内のホテルでいただいた。
あれだけ一生懸命準備をしたが、
それでもさまざまな不具合があった。
インドの旅だから、それはある程度仕方がないのかもしれない。
しかし、たくさんの人たちのご協力と、それ以上に、
真理に近づきたい、神を知りたいという皆さんの心が、
それらをはるかに凌駕したとしか、言いようがない。
そのおかげで、旅はこれ以上ないほどのものとなり、
思い残すことは一つもなかった。
そのとき、食事をしながら、
一人の参加者の方がこう言ったのを私は忘れない。
「ねえねえ、今度はサイババのところへ行こうよぉ」
サティア・サイババ。
インドに行く限り、いつも、
どんなことをしてでもお目にかかりたい方である。
そう思いながら、私は皆さんをチェンナイの空港で見送った。
ただ、このとき……
見送り3

抱えきれない思い出を胸に
インドを発つ一行

見送り4

添乗員の大塚さんと

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旅日記34

7月11日-4
シャンカラーチャーリヤ聖下から皆、聖なる菩提樹の実をいただき、
われわれはその場を後にした。
予定を大きく遅れている。早く昼食を済ませ、
チェンナイに向かわなければならない。
それなのに、社務所の関係者はなんと、
次期シャンカラーチャーリヤがお待ちであるとわれわれに告げた。
すでに決まっている第70世シャンカラーチャーリヤ聖下である。
第70世シャンカラーチャーリヤ聖下は、
私に一冊の小冊子を渡され、どこでもいいので読んでみるように言われた。
難しいサンスクリットの名前が並んでいるところを読むと、
今度はどこでも日本語に訳すよう言われた。
「盗人とは誰か?」
「感覚の対象がそうです」
「敵とは誰か?」
「愚かさのみが」
「ほかの何よりも有益なものは?」
「それは正義……」
それは、大聖シャンカラによる問答集であった。
聖下は私を奥の部屋に導くと、なんと……
シャンカラ

第69代シャンカラーチャーリア聖下と
7月+014

次代シャンカラーチャーリア聖下

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