進化論 3

 この人に限らず、フィリピンの人のなかには敬虔なカトリックが多い。四谷のイグナチオ教会に行っても、六本木のチャペルセンターに行っても、われわれは数多くのフィリピン人カトリック教徒を見ることができる。
 が、もともとフィリピンの人びとには、土着の宗教というものがあったのではなかろうか。それを、欧米から来た侵略者たちがキリスト教に改宗させた。その際には、富を強奪し、女を強姦し、逆らう者は殺害しと、さまざまなことをしたに違いない。
 物質的にも、精神的にも、それは過酷な侵略であったに違いない。ところが、キリスト教徒によるそうした“洗礼”を受けた民族の末裔が、いまやキリスト教を一字一句まで擁護しようとする。少なくとも、彼らの中では飛び抜けて高い教育を受けた彼女は、欧米人のほとんど(おそらくはローマ法王も)が聖書の記述どおりの天地創造など信じないなか、尚、それに反する説に憤慨するのである。
 それは美しくも、どこか哀しい構図でもある。単なる科学上の問題を超え、宗教とは何かを考えさせる進化論争ではあった。

カテゴリー: キリスト教 | コメントする

進化論 2

 数日後再会した彼女は、ふたたび進化論の話を持ちだした。
 彼女によれば、人間の男には、解剖学的に欠けた肋骨があるという。そんな話は初めて聞いたが、とにかくそれが、神が男の肋骨から女を造ったという聖書の言葉を証明しているという。
 僕は、ここで重大な疑義を差し挟んだ。すなわち、もし聖書の言うとおりであったら、最初の人間はアダムとイブであり、彼らの子供たちから人類が繁栄したことになる。とすれば、アダムとイブの子供たちは、近親間での“危険な”生殖関係を持ったということにならないか。
 これに対し、彼女は言った。
「あの時代に、今のような道徳がなかったとしても、仕方ないでしょう」
 うーーん、たしかにそうかもしれない。しかし、だとしたら、創世記の記述が比喩であったとしても、もっと差し支えないとは思わないのだろうか……。
 僕は、自分の知っている日本人のカトリックで、天地創造をそのまま信じている人はいなことを彼女に告げた。
 それに対して彼女は、それこそが誤った科学偏重教育の結果であると主張したのだった。

カテゴリー: キリスト教 | コメントする

進化論 1

 先日、あるフィリピン人と話していて、たまたま進化論の話になった。彼女は敬虔なカトリックである。
「実は、進化論を信じていない人を知ってましてね」
 僕がそう言うと、彼女はへえという顔をした。
「彼は日本では有名なミュージシャンなんですが、進化論は迷信だと言うんですよ」
 ひとしきり僕に話させた後で、このカトリック教徒が口を開いた。
「ということは、あなたは進化論を信じてるの?」
 進化論自体も進化していて、ダーウィンの説にはさまざまな修正が加えられている。そうした細かいことを無視すれば、僕は進化論を信じている。つまり基本的に、人間はサルから進化したと僕は思っている。
 ところが、彼女にとってそれは許せない説だったようだ。
「人間がサルから進化したと、本当にあなたは信じてるんですか!?」
 と、彼女は言った。聖書に書かれているとおり、神は塵から最初の人・アダムをお造りになった。そうしてアダムの肋骨から、最初の女・イブを造られたというのだ。
 アメリカの大学を卒業しているこの女性の言葉に、僕は唖然とする他なかった。

カテゴリー: キリスト教 | コメントする

メジュゴリエの聖母のメッセージ

 毎月25日に出されるメジュゴリエの聖母のメッセージを、この欄で紹介しています。
『愛する子供たち!
 今、このとき、あなた方がまだ過ぎた年を振り返っているときに、わたしは呼びかけます。小さな子供たちよ、自分の心の奥深くにまなざしを向けるように、そうして神に近づくこと、祈りに近づくことを決意するように。
 小さな子供たち、あなた方はまだ地上的なことに執着し、充分には霊的な生活に結ばれていません。今日のわたしの呼びかけが、神を選び、日々回心することをあなた方が決心するための励ましにもなりますように。
 小さな子供たちよ、罪を捨てなければ、そして神と隣人を愛することを選ばなければ、回心はできないのです。
 わたしの呼びかけに応えてくれてありがとう。(2002年1月25日)』

カテゴリー: キリスト教 | コメントする

菅原さん

 菅原やすのりディナーショーにお招きをいただいた。
 菅原さんと久しぶりに再会したのは、イルカ・コンサートの打ち上げの席でだった。 「あら、お知り合いだったの?」イルカさんにそう言われて数えてみると、もう23年も知っている。当時、新進気鋭の青年都市計画家であった彼は、同時に、歌手として国連などで歌っていた。あのころ生まれたばかりだった長男・ユウタ君は、今ではヒットチャートに載るミュージシャン。『〇(まる)』というCDが売れている。後に生まれたソウタ君も、立派な社会人になった。僕も歳をとるはずだ。
 菅原さんの声には、独特の深みがある。あれは他の歌手にはまねできないと、誰かが言うのを聞いたことがある。本当だと思う。
 選曲も、そのときどきの流行りでなく、いつまでも歌い継がれる歌を歌う。「四季の歌」のような日本の歌から、シャンソン、タンゴまで、今回は幅広かった。
 しかし何よりまして僕が好きなのは、普段は見せない、彼の“哲学”みたいなものだ。もともと、彼と出会ったのは、あるヨーガの修行場でのことだった。以来、不思議なご縁が続いている。

カテゴリー: 人生 | コメントする

イルカ2

 昔のフロッピーを検索していたら、何と偶然、イルカさん宛ての手紙が出て来た。彼女からの手紙に僕が返信して、それをラジオで紹介するという企画だったが、こんなことが書かれていた。
『……さて、前にもお話ししましたが、ぼくはカトリックの学校の寮で、中・高の6年間を過ごしました。広島の西のはずれの山の上に、学校と修道院と寮があって、その中で暮らしたんです。
 当時、友だちに歌の好きなのがいて、それが君のファンでした。そして、『なごり雪』という歌を教えてくれました。
「汽車が東京を離れて、木々の間を雪が舞って….ああ、なんちゅうロマンチックなんや….(広島弁じゃけん)」
 高校2年の頃、僕は友だちのこんな解説に聞き入ってました。
 去年の暮れに送ってくださったCDには、新たに心に残る歌がいくつも入っていました。これからも、いい歌を作り続けてください。人生は美しいものだということをぼくたちは信じたいと思い、そう思いつづけてなお、思い切れない部分があります。希望を失いかけた人に、おっと諦めるのはまだ早いよと教えてくれるような、そんな歌を作り続けてください。
 そして、CDが出来たら、どうかぼくに送るのも忘れないでください……』
 平成6年12月12日という日付けがついている。まだ、人生の青い時代のことである。

カテゴリー: 人生 | コメントする

イルカ 1

 イルカさんのコンサートに行った。芸能生活30周年……と銘打っているのに、彼女は相変わらずの若さだった。
 始まって30分、いくつかの歌に続いて懐かしい曲が始まった。
『汽車を待つ君の横でぼくは 時計を気にしてる 季節はずれの雪が降ってる……』
 これが流行った頃、僕はこの歌を知らなかった。高校二年の冬、クラスの友だちが口ずさむのを聞いて知ったのだ。
 歌には、歌そのものの内容よりも、それを聞いた頃の記憶が染みついている。
「汽車がトンネルを抜けると、そこはまっ白な針葉樹の林で……、あああ〜〜哀しいのぉ〜」 
こう言っていた溝本君、今頃どうしているだろうか。優しい獣医さんになったと聞いたが……。

カテゴリー: 人生 | コメントする

茶話会

 ときどき講演をしていると、条件は変わらないはずなのに、話し易いときと話しにくいときがあることに気づく。体調や心理状態によるのは当然だが、その場の雰囲気や聴いてくれている人たちの様子も、おおいに関係があるようだ。
 よく、「舞台は役者が創るのではない。役者と客の両方が創る」と言われるが、それと同じことが講演にもあてはまる。聴く人が関心を持ち、親近感を抱いてくれるとき、話す方は普段以上のものを出して、疲れることを知らない。
 こんど、知人の主宰する小さな集まりで「最近の聖母出現と宗教の未来について」話すことになった。少人数の会だから、ご出現時の秘蔵ビデオなどを流してみようかと思っている。講演会というよりは茶話会。新しいことが試せると思うと楽しみだ。
注)この茶話会は、1月27日午後2時より、場所は地下鉄六本木駅から徒歩0分。まだあきがあるそうですので、関心のある方がおられましたら、主催者〔株式会社ラサ・ポイント 03-3423-0601〕にお問い合わせください。

カテゴリー: キリスト教 | コメントする

T急ストア2

 彼女の言動に、僕がとりたてて不信感を抱いたわけではない。ああいう人もいるのだろう。暮れの店員さん(12月17日)に比べれば、さして珍しい人ではないと思っていた。
 ところがその後、他の買い物をした後、僕はふたたび刺身売り場を見渡せる位置にいた。閉店5分前である。するとなんと、あの刺身オバサンがまたやってきて、伊勢海老の前に立ったのだ。どうやら、値段を確かめているらしい。しかし、1180円の伊勢海老は 400円が精一杯と見えて、それより下がってはいなかった。
 オバサンは、やおら伊勢海老を手にとった。僕に対してあんなに罵倒した伊勢海老をである。そうして、近くにいた店員に二言三言声をかけたかと思うと買い物籠に入れ、足早にレジのほうに消えていったのだった。

カテゴリー: 人生 | コメントする

T急ストア 1

 最近は、不況だからであろう、元旦からスーパーなどは営業しているらしい。
 今年になって初めて、近くのT急ストアに行った。あのとき、奇妙なおじさんに出くわして買わなかったタイ煎餅を無意識に探したが、もうなかった。それに代わって目を引いたのは、向かいの刺身売り場。正月で閉店が早いためか、半値から三分の一値に下がっている。
 1180円の小型伊勢海老が 400円になっているのを見て、僕はそれを手にしていた。が、そのとき、隣の人が声をかけてきた。
「これ、小さいわよねえッ!」
 たしかに見れば、尻尾の部分はカラになっていて、その分の身が掻きだしてある。「食べるところがこれだけしかないじゃないッ!」
 そう言っているのは、見知らぬオバサンだった。服装もちゃんとしている。が、この人、人が買い物してるのに、いつも隣でこんなことを言うのだろうか。その割りには、安くなった刺身をたらふく籠に入れているが……。
 だが、彼女の迫力に押されて、僕は答えていた。
「そうですね。小さいですよね〜」
 そう言って作り笑いをしながら、僕は伊勢海老を元の位置に戻したのだった。

カテゴリー: 人生 | コメントする