『五輪 3』―野獣― 


柔道に打ち込む一人の少女がいた。
真面目で寡黙。勝っても歓びをあまり表情に出さない。
抜群の才能をもってはいたが、淡々と柔道を続けていたことろ、
大学2年のある日、学内の道場で、麦茶の入ったクーラーボックスから、
体長10cmほどの妖精が顔を出しているのに気がついた。
全身が緑色。妖精は、辺りを見渡しながら何処かへ飛んでいった。
(あの子が見守ってくれている……)
そう感じた少女は、そこからさらに精進を重ね、急速に力をつけた。
世界選手権を二度制し、ロンドン・オリンピックでも金メダルを獲得する。
そのとき、世界中に映し出された試合前の形相があまりにすさまじかったので、
彼女は全国的に「野獣」と呼ばれるようになった。

野獣・松本薫は、意識的に「野獣」に変貌していくのだという。
試合1ヶ月前になると、女性らしい服装、女性用品の着用をやめて“女を捨てる”。
努めて男らしく振舞い、
試合1週間前には山や空、風などのエネルギーを体に取り込み自然と一体化する。
ひたすら本能に従い、勝つことだけに没頭する。
こうしてロンドンで勝ち、昨年の世界選手権でも勝ち、臨んだ今回のオリンピック。
準決勝で、惜しくも世界ランキング一位のモンゴルの選手に敗れたが、
3位決定戦で勝ち、二大会連続のメダルを手にした。

ただ、松本のこの時点まで、日本柔道のすべてが銅メダル。
柔道界にあって、それは許されないことであるらしく、選手たちは一様に、
「負けました」「支えていただいたのに申し訳ありませんでした」などと口にした。
「金メダルを獲りたかった。悔しいです」と言って泣いた中村美里選手や、
絞り出すようにして「私の弱さです」と言った海老沼匡選手などの様子は、
見る者の涙さえ誘う。
野獣・松本薫も、「何もなしでは日本には帰れないと思った」と言っている。

「立派な成績。胸を張って帰ってきて!」などと、われわれはある種気楽に言う。
『人事を尽くして天命を待つ』と口にする。
しかし彼らも皆……

悟りを啓く前の人間だ。欲望もあれば執着も、意地もある。
4年間を死に物狂いで駆け抜けてきた彼らそれぞれの気持ちは、
われわれには到底想像ができないものであるに違いない。

もちろんそれでも、われわれは皆、それぞれの経験を重ねながら、
誰もが無執着・無我の境地に向かって進化している。
勝った選手も負けた選手も、彼らはスポーツの技術や体力以上に、
その鍛練を積み重ねていると言っても過言ではない。


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