先輩 5


 必死で泳いでいるのに、岸には近づかなかった。しかも体力は、急速に消耗していた。手も足も、だんだん棒のようになってくる。山陰の冷たい水で、体温も奪われていっていた。もうじき、体が動かなくなることが予感された。しかしそれでも、大波は動きを止めなかった。
 死ぬのか……。いや、死ぬに違いない。そうだとしたら、人の死は、なんとあっけなく訪れることか……。
 森鴎外の『山椒太夫』のなかに、姉の安寿が妹の身代わりになるかのように、入水していくくだりがある。
 他人にために死ぬなら、その死にも大いに意味があるだろう。だが、自分は今、自らの不注意やふがいなさのために死のうとしているのである。それは、美しい文学や芸術の世界とは似ても似つかないものだった。溺れて死ぬことがこんなに苦しいなど、今の今まで知らなかったと私は思った。
 あのとき、もしロープが来なければ、私は確実に死んでいた。私はロープの端の結び目につかまり、必死で息をこらえた。
 そうして気がついたら、砂浜に横たわっていた。昼に食べたものと飲んだ水は、すべてその場に吐いた。


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