摂理


すべての聖書を通じてのクライマックスはどこか?
そう問われれば、誰でも、新約聖書のうちの福音書、
すなわち、イエスの言行録を採り上げるに違いない。
福音書を書いたいわゆる福音史家は4人いるが、
(本当はもっとたくさんいたはずであるが、
 後に正統であると認定された人が4人だけいて)
それぞれの福音書に特徴がある。
なかでも、深い霊感に打たれ、
イエスの内面をもっとも深くえぐりだしたのはヨハネであったので、
最初に【ヨハネによる福音書】を解説の題材に選んだ。
実際、当初セミナーでは、【ヨハネ】の冒頭の数行まで解説するのに、
数回を費やした記憶がある。
また、【ヨハネによる福音書】の『最後の晩餐』の部分は、
すべての聖書全体を通じたクライマックスであると言って過言ではない。
しかしそれと並んで私たちの心に訴えかけてくる部分といえば、
やはりマタイの【山上の垂訓】である。
なかでももっとも美しいとされるのは、
第6章25節に始まる、いわゆる『摂理への信頼』と呼ばれる部分だ。
『だからわたしは言う。
 命のために、何を食べようか、何を飲もうか、
 また、体のために何を着ようかと心配するな……
 野の百合が、どうして育つかを見よ。
 苦労もせず、紡ぎもせぬ。
 わたしは言う。
 ソロモンの栄華の極みにおいてさえ、
 この百合の一つほどの装いもなかった。
 今日は野にあり、明日はかまどに投げ入れられる草をさえ、
 神はこのように装わせられる。
 ましてあなた方によくしてくださらぬわけがあろうか……』
これを初めて読んだ中学時代……


あまりのことに私は声も出なかった。
当時、学んでいたカトリック系の進学校は、
服装や容姿、言動にきわめて厳しい規則が多々あったので、
なんと、この学校の創設者らの信奉するイエス自身はこう言っていたのかと思うと、
そのあまりの落差に驚愕したのであった。
そこで私は、しばらくはここに書かれてあるとおりのことを実践したつもりであったのだが、
それは当然、学校の神父たちにはすこぶる評判が悪かった。
実はそこに、相対界を生きる上での秘密があることに気づいたのは、
ずっと後になってからだ。
その秘密は、皆さんが日々、瞑想しながら自然に学んでいる秘密でもある。
9日の<木曜くらぶ>では、この前後の脈絡も含め、
さらにかつてサティア・サイババが語られた同じ内容の、
しかし別の表現による講話も紹介し、解説する。


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