青山圭秀エッセイ バックナンバー 第161号 –

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第161号(2022年11月1日配信)

『聖者と神々の思い出』

カルパスワミ神は、神々のなかでも特異な地位を占めるかただ。
彼は酒を好む。タバコも吸う。肉も召し上がる。
かといって清浄でないわけはなく、地上においては強大な力をもち、
弱者を救い、天界に導くという使命を担っておられる。

南インドには、カルパスワミ神を一身に受け、その言葉を口にする方がおられる。
彼もまた、カルパスワミと呼ばれる。
こちらは人間なので、聖者カルパスワミとお呼びするほうが正しいであろう。
聖者は通常、菜食であるが、
カルパスワミ神が降臨されるや、酒を呑み、タバコを吸われ、
帰依者からは肉の献上を受け取られる。
かつて、聖者アガスティアが大海を呑んだという神話があるが、
こちらは地上の穢れを呑み込まれ、
われわれには幸福だけ残してくださる。

かつて、カルパスワミ神が降りてこられる前、
つまり聖者が聖者ご自身であられる間に、
私たち巡礼者を小部屋に導き入れてくださったことがあった。
そのとき、その掌からカルパスワミ神が立ち昇られ、
私たち一人ひとりの中に入って祝福されたのを見た人がいる。
また、聖者が突然、扉を開けてお出ましになったとき、
一人の方は決して近くにいたわけでもないのにその“風圧”に吹き飛ばされ、
コロコロと転がった。

思い出深い8月の巡礼旅行後、数度にわたって次の巡礼の指示が予言に現れた。
『カールッティケの月(11月15日~12月15日)、
シヴァ神のダルシャンに与りなさい。
ティルヴァンナマライとチダンバラムに赴くように……』
この期間で巡礼に行こうとしていたところ、
これを察知されたのかカルパスワミから、
『12月7日、満月の大祭には21神将がこぞって降臨される。
是非、会いに来るように』
という直接のお言葉をいただいた。
カルパスワミ神配下の21位の(21人の)神々のことである。
こうして今回の私の巡礼は、12月6日(火)~11日(日)で組むこととなった。
結果、日本への帰途にはクアラルンプールで適度な時間が発生するので、
自由時間として買い物やマッサージを楽しみ、その他の巡礼や観光も可能となった。

カルパスワミ神と21神将にお目にかかれるのかどうか、
そこで今回どのような奇跡が起きてくるのかは、まさに神々や聖者のご意志により、
こちらの意識のありようにかかっている。
しかしいずれにしても、
チダンバラム・ミステリーといわれるナタラージャ寺院を巡礼し、
訪れた者だれもが驚くというカーリー寺院を参拝、
さらに、ラマナ・マハリシの聖地では瞑想に浸りつつ、
まだ日本人の誰も与ったことのないウイルス鎮静化のための
大ホーマを捧げることになる。

今回のこの巡礼についてもっと知りたい、
一緒に行きたいという方もおられるかもしれない。
時々刻々、情況が変わってきているので、
その皆さんは至急、お問い合わせフォームからご連絡いただきたい。


第162号(2022年11月23日配信)

『1990年』

前世紀が最後の十年を迎えようとしていた1990年11月、
私は生まれて初めてインドにいた。

すでにインド文化にはさまざまなかたちで触れていた。
子どもの頃『万国びっくりショー』で見た、
ヨーガ行者のことをずっと忘れなかった。
中学のときについたヨーガの先生から、瞑想を学んだ。
学生の頃、まだ日本で誰もその言葉すら知らなかったアーユルヴェーダを学んだ。
だが、31歳だったそのとき、なんといっても会いたかったのは、
「神の化身」サティア・サイババだった。

11月23日、誕生日の当日、巨大なヒルヴィウ・スタジアムに現れたサイババは、
芥子粒のように小さく見えた。
数日後、祈りが通じたのか、私はインタビュールームに呼ばれて、
めくるめく現象の数々を目撃することとなる。
「妻は体調を崩し、今回は来られませんでした」というアメリカ人の帰依者の前で、
サイババは手をクルクル回したかと思うとシヴァ・リンガムを物質化した。
その赤い縞模様を指さして、『奥さんの悪い血液をここに封じ込んだ』と言われた。
『奥さんは、もうよくなるだろう』

私にもなにかを物質化してほしいと思わなかったと言えばウソになる。
が、サイババは私にはモノの代わりに、過去にまつわる一つの真実を語った。
『おまえの最初のヨーガの教師が、
 おまえが真理(サティア)に近づいていけるようにと
 祈ったのをわたしは聞いて、
 おまえを呼んだ……』

今回の巡礼旅行でも、それと同じことが起きた。
ある方が捧げていた必死の祈りを聞かれたシヴァ神は、
『彼を連れてくるように』という指示を予言の葉に残されていた。
それを一体、どのように伝えればよいのか戸惑っていた私にも、
『次のプージャのときに伝えるように』という指示を残されていた。
そのとおりにしたところ、その場におられた皆さん以上に驚かれたのは当の本人で、
「死ぬほど祈っていました」と言われたものの、
いざそれが叶うと、信じられないという面持ちで放心された。

あるとき、一人の大金持ちが、
大人でも抱えきれないであろう巨大な花籠を
サイババに贈ろうとされたことがあった。
また、インタビュールームのなかで、別の金持ちが
一対のパドゥーカ(サンダル)を贈ろうとした場に居合わせたこともある。
プラチナで造られた見事な逸品で、11月23日の誕生日の贈物であった。
だが、サイババはそれを受け取ろうとされなかった。
『花も、フルーツも、他のどんな贈物も、もともとおまえのものではない』
サイババは言われた。
『それらよりも、真におまえが所有しているもの、
 内側に輝く浄らかなもの、悔い改めの涙で浄められた芳しいおまえの心が、
 わたしは欲しい』
『真の神性がおまえのハートに花開いたとき、
 そうして至高の神が棲まわれるハートをわたしに捧げるとき、
 そのときがおまえのなかの、わたしの、真の誕生日なのだ』──

まるで昨日のことのような、三十数年前の思い出である。


第163号(2022年12月19日配信)

『血脈』

明治の初期、三百年の沈黙の末開国した日本に関心をもつ多くの外国人のなかに、
イギリスの貿易商ジョセフ・ヒギンボサムがいた。
彼はそこに息づく人びとと文化に心酔し、横浜に居を構えた。
ジョセフが好んだもののうち、第一は絵画であった。
日本人の描く自然とその町並み、人物と風景……特に水墨画を彼は愛した。
そうして気づいてみると、日本女性と結婚し、三男一女をもうけるにいたった。
妻は、名を牧野キンといった。
滞在が長期に及んだ後、ジョセフは父親の訃報に触れる。
そうして帰国の途につき、香港に立ち寄った際、
不慮の病に倒れ、帰らぬ人となった。

その父を追うようにして、長男・牧野譲(じょう)は、
父の祖国イギリスはマンチェスターを訪ねた。
対応した執事に来意を告げるも、父は名門の伯爵家であり、
東洋人との混血の子は歓迎されざる客だった。
門前払いとなった譲は途方に暮れ、所持金も底をついて、
来た道をトボトボ引き返していると、六頭立ての馬車が後を追ってきた。
降り立った老婆はこう言った。
「おお、おお、私の孫よ……、おまえを表から入れることはできないけれど、
 裏門からなら入れてあげられる。一緒においで」
そのとおりにすれば、譲はまったく違った人生を歩むこととなったであろう。
そうして違った家系が生まれたに違いない。
が、「裏口から入ることはできません!」と譲はこれを拒絶、
アメリカ行きの船に乗り込んだ。船内では皿洗いをし、
広大な米大陸をヒッチハイクして、最終的にハワイへと渡った。

ハワイに移住した長男・譲と三男・金三郎は、共にハワイ報知新聞を創立した。
社会正義を求めて活動し、時には弱者のための訴訟も辞さず、
現地日本人社会の礎を築いたといわれている。
彼らが日系社会にどれほどの貢献をしたかは、
残された伝記の献辞からも容易に想像できる。
『現在及び将来の人びとは、われわれが今日享受する政治、社会、経済的向上への
 牧野氏の貢献の歴史に鼓舞されるに違いない』
 ハワイ州知事ジョン・A・バーンズ
『フレドリック牧野の名は、永久にハワイ州史に残るであろう。
 その功績は、アメリカにおける少数民族の真の意義を理解する人びとによって、
 常に記憶されるであろう』
 アメリカ合衆国上院議員ダニエル・イノウエ
『彼の賢明な判断、すべての人びとのための温情と人格は、
 社会に尽くすことの手本を示したものというべきである』
 ホノルル市長S・ブレイズデル
ハワイ報知は、ハワイに現在も残る唯一の日本語新聞である。

ジョセフ・ヒギンボサム伯爵は、牧野キンとの間に四人の子をなしている。
うち、次男・瑛次郎は日本に留まり、亡父の跡を継いで貿易を営んだ。
自前の船舶を所有する財閥となり、横浜に数千坪の邸宅を構え、
毎年春・秋には園遊会が催された。当時の写真を見れば、
見渡すかぎりが牧野家の土地で、厩舎には馬が何頭も飼育されていたことがわかる。
地元の若い女性にとっては、牧野家にお手伝いに入るのが憧れであったという。
ちなみに、本稿筆者の恩師・大木章次郎神父の実家も横浜の大貿易商であったので、
牧野家とは何らか接点があっただろうと考えるのが自然である。
その環境に育った孫・美佐は、夫となった渡辺晋とともに昭和34年、
芸能プロダクションを創設した。わが国における芸能界の草分けとして、
クレージーキャッツ、ザ・ピーナッツらをはじめ、伊東ゆかり、園まり、
ザ・ドリフターズ、沢田研二、布施明、森進一、
さらには小柳ルミ子、天地真理、キャンディーズ等を擁する、
いわゆる「ナベプロ帝国」を築き上げることとなる。
一方、長男・譲の家族はわが国に帰国後、大正12年、
息子・喜一が中等学校野球連盟を創立、今日の甲子園大会を擁する
高等学校野球連盟の礎を築いた。また、その息子・英雄は、
曾祖父に当たるジョセフ・ヒギンボサムの絵画への造詣を受け継ぎ、画家となった。

牧野英雄画伯には、筆者もその邸宅でお目にかかったことがある。
ご自分の絵画以外に、多くの美術品・芸術品に囲まれていた。
正直を絵に描いたような方で、画業にいそしむものの、
これを売るという努力をせず、まるで仙人のような印象であった。
だが温和で、人を疑うことを知らない性格を逆手にとられ、
晩年、広大な邸宅を詐取された。筆者と友人の譲原正幸氏は、
これを阻止するべく八方手を尽くしたがついにかなわず、
その後家族は分かれて住むこととなった。
その際、多くの芸術品とともに画伯の画も持ち去られたが、
娘の英里はこれはというものだけを選び、手押し車に載せて秘匿した。
現在、彼女はアートオブサイエンス中根分室近くに母親と共に住み、
弊社の仕事に従事している。

父・英雄は、自分は祖先と違い、大きく社会の役に立つことなく死ぬことになるが、
しかしおまえはなんとしてでも人様のためになる人生を送るようにと娘に言い残し、
平成26年亡くなった。
父親はまた、将来必ず自分の画が売れるときが来るとも語っていたという。
英里はそのため、この度、父の遺作を公開し、
その売り上げを困窮するアフリカの学校運営のために使いたいと申し出てくれた。
皆さまに持っていただけて、かつそれがアフリカの子どもらの役に立つならば、
それ以上に嬉しいことはないと言っている。

日本の文化と絵画を愛したジョセフ・ヒギンボサム伯爵家から数えて四代、
牧野英雄とその一人娘の願いをかなえたい。
12月24日(土)、イエス・キリストの生誕を祝うその日、
画伯の遺された画のオークションを催したい。(文中敬称略)


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