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青山圭秀エッセイ
最新号(第190号 2025年9月29日配信)より

『神託』

早いもので9月も終わりに近づいているが、ごく最近まで猛暑が続いたことには驚きを禁じ得ない。日本は「温帯」と小学校から習ってきたものの、「亜熱帯」に移行しつつあるという説が今日、現実味を帯びつつある。

ところで、インドの暦では、 現在は特別に女神に崇敬を捧げる9日間(ナヴァラートリ)にあたっている。
女神カーリーと一体となった聖者の逸話を先月の<瞑想くらぶ>でご紹介したが、 あまりに印象的だったのでいま一度みてみたい。

ラーマクリシュナ・パラマハンサには、一人の姪がいた。
その姪・ラクシュミが婚約したとき、知らせを聞いた聖者はポツリと言った。
「彼女は未亡人になるだろう」
聞けば、聖者はこう言うのだ。
「ラクシュミは力の女神シータラーの部分的化身で、
 一方、婚約者は普通の人間だ。
 それが彼女と楽しく過ごすことなど、不可能だ。
 シヴァ神が化身でもされなければ、誰も彼女を娶ることなんてできないよ。
 だからラクシュミは、間違いなく未亡人になる」

これを聞いた帰依者はショックを受けて言った。
「あなたはラクシュミを深く愛しておられます。
 婚約を祝福されるものとばかり思っていましたのに、
 こんなことを言われるとは……」
それに対してラーマクリシュナはこう答えた。
「わたしに何ができるというのだね?
 母なる神が、わたしをとおしてそう話されたのだから」

結婚の数ヶ月後、夫となった男は仕事を探す旅に出た。 そうして、二度と戻らなかった。
聖者は、未亡人となった姪に静かに言った。
「おまえの務めをなし、修行しなさい。
 一人で聖地を旅してはならないよ。
 誰がお前を傷つけるかわからないから。
 世俗の生活は恐ろしいものだ」

たくさんの方の予言を読むなか、 これに似たケースをいくつも見てきた。
聖者やシヴァ神は、それぞれの人のために慎重に言葉を選び、 明るく肯定的に生きられるよう、心を砕いておられる。 これだけはしてはならないということがあった場合も、 優しげな口調で諭される。
なので、読んでいるほうは、それほど重要なことと思えなかったり、 聖者や神々も間違えることがあるかもしれないなどと、つい思う。
上記の場合であれば、ラーマクリシュナに帰依する人たちですら、 まさかそんなことは起きないと思ったのだろうし、 そう思いたかったに違いない。
だが、師は言った。
「母なる神が、わたしをとおしてそう話されたのだ」

女神とほとんど一体となった聖者が、 紙一重の二元性を残して神の言葉を聞くのも驚きなら、 それが速やかに成就するのもある意味恐ろしい。
まるで人間に「自由な意志」などないかのようだ。
しかしこの場合も、自由意志を働かせることは可能だった。
実は婚約した彼女はこのときまだ11歳だった(!)ので、 彼女をすぐに未亡人にするのがいやなら、 これをアレンジした周囲がとりあえず婚約を流すか、 せめて延期にすることも可能だったはずだ。
しかし、それはできなかった。
人は欲望と執着に囚われ、運命に向かって突き進むものである。
自分に限って、そんなことは起きないだろうと思い、 そうして聖者の言われたとおりのことが起こる。
かくいう私もまた、かつて同じことをして大怪我をしたことがある。

あらゆる哲学や宗教が語っている。
「人には自由意志が与えられている。
 それが私たちの進化の基盤である」
たしかにそのとおりだ。
しかし私たちはまた、どうしても我を通したい生き物でもある。 止められても、頭ではまずいと思っていても、 結局、人は何かに突き動かされて行動する。

『世俗の生活は恐ろしい』とは、まことにそのとおりだ。
ただし、聖者がそう言っても、 そこになにか甘いものを感じ取り、うっとりと見つめながら、 私たちは人生を生きていく。
打撃は、来ては去り、去っては来る。
そうして気がついたときには晩年を迎え、死を目前にしてもなお、 私たちはなにかに執着して生きている。 これは譲れない、これだけは手放せないなどと言いながら。

しかし繰り返し生まれ変わり、苦しみに苦しみ抜いて、 いつの日か浄化の過程を終えたとき、 私たちにもこのラーマクリシュナのような意識の状態が訪れる。 『世俗が恐ろしい』のと同様、それだけは確かな事実であると、 あらゆる聖者、聖典が一致して述べている。