青山圭秀エッセイ バックナンバー 第141号 –

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第141号(2020年12月11日配信)

エッセイの掲載はありません。


第142号(2021年2月15日配信)

『バラジ神』

お金と愛情……。
それは、世の人が望む、ほとんどすべてとも言ってよい。
この両方をお一人の神様が司るというのだから、彼には強大な権限が与えられているし、
そのことを知った人びとは自然、この神を敬い、礼拝するだろう。
こうして、ティルパティのバラジ神は、
インドで一番、世界でもヴァチカンに次いで二番目に多くの寄進を集める、
格式高い寺院となった。

バラジ神は、ヴィシュヌ神の別名であるが、
同じヴィシュヌ神の化身であるサイババが、あるときバラジ神の姿をとり、
ティルパティにお現れになったことがある。
その際、寺院の僧侶に対し、自分にかけられた装飾の金銀宝石が重すぎるので、
これを軽くするようにと言われた。
この奇跡に驚いたティルパティの僧侶たちは、その後毎年一度、
こぞってプッタパルティのサイババの許を訪れるようになった。
http://www.art-sci.jp/essay/archives/1029
ところで先日、ある方に電話でこの奇跡の話をしていたとき、突然、バサリと音がした。
見れば、バラジ神像に掛けられた真珠のネックレスが落ちている。
それは、通常の真珠ではなく、小さな玉をクラスターのようにして多数編んだもので、
ネックレスのなかではひときわ重いものだった。

インドはヴェロールに近い地で、バラジ神の寺院建設を始めて5年になる。
現地の人びとの献身的な努力により、素晴らしい寺院ができて、是非、
私の生徒さんを迎えて落慶式典(クンバ・アビシェーカム)を催したいと言ってこられている。
このようなとき、敬虔な彼らがどんなに私たちに感謝、歓待してくれるか、
行ったことのある方でないと想像できないだろう。
なので皆さんをそれにお連れしたいのはやまやまだったが、
昨年初からのコロナ禍により、延期に延期を重ねてきた。
今般も、3月に来てもらえないかという打診を受けたがやはりかなわず、
占星学的に適切な日程で、3月3日(水)、クンバ・アビシェーカムが挙行されることとなった。
皆さんのためには、今回の儀式で名前(と星宿)を読み上げ、
ときを経て渡印できたとき、あらためて儀式を執り行うこととなった。

今回の儀式の際に吟唱していただく名前をどうするかここしばらく考えてきたが、
折りしも『あるヨギの自叙伝』のほうは次回、
科学と宗教、そして魔法に関するヨガナンダの言説が説かれる。
科学と宗教、お金と愛情、いずれも相対界において対極を成すものであり、
魔法はバラジ神が駆使し、奇跡をもたらされるものだ。
なので、この日の解説を聴いていただいた皆さんのなかで希望される方、
同神を敬愛される方のお名前(と星宿)を、
当日、僧侶らに吟唱していただくことにしたい。


第143号(2021年3月18日配信)

『出雲』

皆さんの予言をお読みしていると、
浅草や鎌倉に行って神々を礼拝し、瞑想するようにという指示がしばしば出てくるが、
ときにはイセジングウやキョウト、シコクに行くようにという指示もある。
伊勢神宮はそのまま書かれていることが多いが、
京都の場合は『仏像が千体もあるお寺(三十三間堂)』とか、
四国は『敬虔な人びとが多くの寺を巡礼する島』といった記述の場合がある。
しかし長い間、出雲大社に行くようにという指示は皆無であった。

『おまえの国の中心にある、由緒正しい寺院』という表現が最初に出たとき、
それがどこのことを指しているのか分からなかった。
日本地図を広げ、普通に最東北端と思われる知床岬と、
最西南端と思われる与那国島に定規を当て、その中間をとると、
意外にもそこは出雲と、私の故郷・福山の中間の辺である。
このあたりでもっとも由緒正しい寺院といえば、やはり出雲大社であろう。

ちょうど十年前の3月11日、わが国を未曾有の大地震が襲い、
瞑想をお教えした生徒さんのご夫妻が亡くなられ、
お子さんのうちの一人だけが遺された。
そのお子さんがどうしておられるのかをたどって、
最初に、京都のご親戚にたどり着いたが、
この方も情況はよく分からないので、分かったら逆に教えてほしいと言われる。
仙台方面の生徒さんにあたってみると、
亡くなられた方のことをあまり詮索しないほうがよいのではないかというご意見もあり、
しかし諦めきれずに探していると、ご主人の弟さんという方にたどり着いた。
ところが、無理もないことであるが、この方は心に大きな痛手を負っておられ、
お話をすることができなかった。
なんとかしてさらにその叔父に当たる方をつきとめ、お話をうかがったところ、
震災からひと月経って、亡くなった下のお子さんの遺体が見つかり、
葬儀はこれからということだった。

現地に着いたとき、ご遺体はまだ、体育館に並べられた柩のなかだった。
東京から持参した花では飽き足らず、現地の花屋から可能なかぎりの花を買い求め、
柩を飾らせていただいた。
生き残ったお嬢さんは、すでに松江の祖父母のところに引き取られたという。
『出雲大社に行くように』という指示が出るようになったのは、その後のことだ。

祖父母様に初めてお目にかかったとき、心底ほっとしたのを覚えている。
古き良き日本人の美徳を絵に描いたような方たちだった。
当時、小学生だった和芳ちゃんは慎ましく、多くを語る子ではなかった。しかし
その後、毎年のように出雲巡礼が指示される度、ご迷惑を顧みずお邪魔していると、
徐々に心を開いてくれるようになり、今では行くと大喜びしてくれる。
これから高校三年生で、先日お電話したときも、
将来は看護師さんか保健師さんになりたいと語ってくれた。

あのとき、生徒さんのなかで、
一人遺された和芳ちゃんを自分が引き取りたいと申し出てくれた方が複数おられた。
また、被災され、家と家族四人を流された方は、
地元の消防団の復興・復旧作業に加わっておられたのだが、
見舞金をお渡ししたいと何度ご連絡しても、ついに受け取られなかった。
「もっと困っておられる方に回してください」と言われるのである。

先日、新たに建立された寺院が落慶式を迎えたが、
あの寺院に鎮座されたペルマール・バラジ神は、
こうした皆さんの魂をずっと見守ってくださると私は信じている。
そして大変僣越ながら、拝み倒してでもそうしていただくつもりだと、
密かに心に誓っている。


第144号(2021年4月21日配信)

エッセイの掲載はありません。


第145号(2021年5月1日配信)

『生命』

今から十年前の3月11日、わが国では未曾有の大災害があり、
多くの方が亡くなった。
同時に誘発された津波により、
福島の原子力発電所は全電源を喪失、
さまざまな計器類が機能しなかった建屋は水素爆発を起こし、
多くの人びとが故郷を追われた。
十年を経た今もまだ、
故郷に戻れない人たちがたくさんおられる。

ちょうど時を同じくしたかのように、
サティア・サイババの肉体も傷んでいた。
2011年4月23日(土)、逝去の前日、
私はサイババが亡くなることを知った。
直前に読んだ聖者カードゥヴェリの予言のなかにも、
サイババの魂がすでに世界中を巡って多くの人に祝福を与えていること、
すぐにも肉体の衣を脱ぐことが記されていた。

『(そのような未来がわたしには見えるが)
 それでも、シヴァ神の御心はわたしの理解を超えており……』
予言にはそう書かれていたが、葉はちょうどここで途切れていた。
あと数行か、または数語でこの章が完結するであろうことは、
全体の流れから想像できたが、
まるで真実が、その全貌を露わにするのを恥じらうかのごとく、
その後もこの部分を読みたいと思い、何度検索をかけてもらっても、
それはいまだに見つかっていない。

『(次の危機は)自然界に関する災厄からもたらされる。
 よく知られていない、誰も予想できないものだ……』
予言の読み手は、最初「自然災害」と口にしたものの、すぐに、
「自然災害ではなく、自然界に関する“災厄”」と言いなおした。
さらに、『それは人の過ちによるもの』とも書かれていた。
地震や台風のような「災害」ではなく、
「自然界に関わる災厄」とは何なのか……。
人為的で、かつ予想できないものとは……。
セミナーなどの際、たまにこのことに触れ、
皆さんと「何のことなのでしょう……」などと話しているうち、
じきにそれはやってきた。
そうして一年半が経ってなお、収束は見えていない。

人生には避けがたく浮沈があり、国家にも、自然界にも変動がある。
国家の歴史、地球や、宇宙の歴史、
そして無数に存在するであろう宇宙全体のことを思えば、
われわれの人生の一つひとつはいかにも小さく、瞬間のものであるが、
しかしそれでも、人間に生まれることは類まれで、
一つひとつの人生が尊く、愛おしい。
生命の歴史のなかで、おそらく、肉体を持っている時間は、
持たない時間よりはるかに短いに違いない。
そんな人生を、私たちの一人ひとりが今、生きて、進化を続けている。


第146号(2021年5月25日配信)

『命運』

政治の話と身内の話はなるべくしないようにと心がけているが、
それでもときどき書きたくなることもあり、
「そういうのも読みたい」と言う方がおられるのもまた事実なので、
今日は少しだけお許し願いたい。

『理性のゆらぎ』と『アガスティアの葉』にもあるように、
父は最初の妻に先立たれ、一人娘が残された。
亡くなった妻のすぐ下の妹の家にはたまたま子がなかったので、
彼女はそこに養女にやられることとなった。
私が子どもの頃、尾道には現在のような全国的知名度はなかったが、
尾道に行けば、どうしてこんなに優しいのか分からない女性が私を迎えてくれた。
その人が実の姉であることを、私はその後も長く知らなかった。

彼女が養女に行った先の母親は、したがって私とは血のつながりがないのであるが、
この「姉の母親」は茶道の師であり、歯に衣着せぬ物言いをする方でもあるので、
姉にもお弟子さんたちにも厳しい人に映ったに違いない。
だがその実、彼女はちょっとした風流人でもあり、
書もたしなめば、絵画も玄人はだしに描く。
最近は茶の湯の全国大会を催され、
表千家の宗匠を招かれたそうで、
先般、ご自宅を訪ねると私たちにも過分な茶と菓子をふるまわれたうえ、
お茶の名器や、自ら描かれた書画を見せてくださった。
その際には家系に関するさまざまなエピソードも能弁に語っていただいたが、
聞けば早や、95歳ということであった。

9年前、父が亡くなって葬儀を行なったとき、
彼女はこれに参列くださり、父を送った後で一言、言われた。
『圭秀さん、幸子をよろしくお願いします……』
幸子とは、養女となった、姉のことである。
両親に孝行することがほとんどできなかった私は、
それを父の遺言のように受け止め、
姉をインドやその他の巡礼旅行に誘いなどするようになった。
その際には会員の皆さまにひとかたならずお世話になった。

ずっと後になって、尾道の優しい女性が実の姉であることを知り、私は思った。
もし父の最初の妻が亡くなることなく男の子が続けて生まれたとしたら、
それは私だったのだろうか、それとも別人だったのだろうか……。
もちろん、姿形は違っていて、体質や気質も違っていただろうが、
そこには“私”の魂が入ったのだろうか……。

予言の葉を読んでみれば、ある日、あるとき、ある場所に、
惑星がある一定の配列をとったとき私は生まれ、
その名も両親の名もはるか昔から書かれていたわけだから、
父の最初の妻が亡くならないはずはなかったことになる。
だとしたら、私はそうなるべくして母のもとに生まれ、
このような人生を歩むことになった。
後に私の駄文を読まされることになる読者の皆さんの命運にも、
それなりに関係していたことになるだろう。

どんな家にも個人にも、国家や、惑星にすら“命運”がある。
それは偶然に起きているように見えるが、
実はそうではないことを太古の聖者らは知っていた。
そこに横たわる法則の一部は聖典に記されたが、
しかし多くは文字になることなく伝承され、
記された聖典もまた、多くが苛酷な歴史のなかで散逸した。

ときに地上に現れる聖者は、それらを認知し、復興する。
次回、5月30日(日)のセミナーでは、
そのうち、特に宝石と、地上の生命の命運についてお話ししたい。

<追記>
満月が地球の影にすっぽり隠れて赤黒く光る「皆既月食」が26日夜、
日本全国で見られます。
この日は今年、月が最も地球に近づく「スーパームーン」と重なるため、
天気が良ければ普段よりも大きな赤い月が見られることになります。

これをじっくり見てみたいという気持ちが湧くかもしれませんが、
皆さんは、できればやり過ごしていただければと思います。
または、月が完全に地球の影に入る午後8時9分~28分をはさんだ30分~1時間、
カーテンを閉めて瞑想されるとしたら、さらに素晴らしいです。

「地上の生命の命運」と深く関わるこれらについても、
30日(日)のセミナーで詳しく解説する予定です。


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