メールマガジン<プレマ通信>

青山圭秀エッセイ バックナンバー 第111号 – 第120号

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第111号(2017年12月4日配信)

エッセイ掲載はありません。


第112号(2018年1月31日配信)

『師と弟子の関係』

私のよく知っている予言の読み手が、あるときこんなことを言った。
彼は読み手となるため、ほとんど学校にも行っていない状態で弟子入りをした。
以来、来る日も来る日もやらされることといえば雑用ばかり。
たまに師の機嫌がよいと、葉の検索についてチラリと聞かせてもらえるが、
それは体系的でもなんでもなく、辛い日々を続けていた。
若い時期、時間の進むのは恐ろしく遅い。
それでもなんとか数年が経ち、一通りの検索ができるようになってなお、
言いつけられるのは雑用と下仕事。
兄弟子は兄弟子で同じような思いをしてきているので弟弟子には厳しく、
自分はここに来るべきではなかった、もう諦めて家に帰ろうと思い詰めていた。
彼は、自分の国にサイババという神人がいることを信じていたが、
生活も修行も苦しいなか、ある日、彼はサイババに対してこうつぶやいていた。
「いったいどうしたらよいのでしょうか。もう無理です。家に帰らせてください……」
そう思って泣いていたとき、突然、兄弟子がやって来て言った。
「先生がお呼びだ」
「……」
「検索だそうだ。早く行け!」
そうして出ていったところ、待っていた客はインド人ではなかった。
読んだ葉には、『この人の名はマサヒデ……ディーパックとも呼ばれている』と書かれていた。

わが国でも、“芸”事も“道”事も、何かを習うには
まず師の家に入り、内弟子になったものである。
雑用をさせていただき、日々暮らしをともにしながら、何年か、十何年か経つうち、
もし見込みがあると認められれば少しづつ何かを教えていただける。
精神的なものであればあるほど、そうしたものであった。
私が、『(インドの)太古のアートを教えるように』と予言の葉に書かれた後、
かなりの期間そうしなかった理由も同じところにある。
本来はそれほどまでに内面を共有する作業であるがゆえに、
私は、これを大いに躊躇したのであった。
しかしその後、瞑想を教えた皆さんの予言の葉を読むようになってから、
『あなたの瞑想の師と……して』 『瞑想の師に……してもらって』
などという文言が現れるにつけ、こうしたことが個人の意志のみによって起きたり、
まして偶然などで起きたりはしないことを徐々に知るようになる。
以前にも書いたことがあるが、皆さんに瞑想を教えるためには、
ヴェーダの理論や科学を知っているだけではだめで、
そのためにさまざまな儀式や慈善を行なうようにという指示が出てくる。
そして今回も、そうした指示が現れた。
『弟子たちのために、できるだけ早く行ないなさい』ということがさまざまあるので、
2月4日(日)にそのための最初の儀式を行なう。
これは一番最近教えた技術と特に関係があり、また、最短で儀式を行なおうとすると、
その日はちょうど<Art5>を教える日に当たっている。
この日、<Art5>を受講される皆さんは他の皆さんのためにもぜひ与って、
ご一緒にお祈りしていただきたい。

<Art5>第二期が始まってから、普段はとてもおとなしい、言葉を交わしたこともない
受講生のお一人が近づいてこられて、最近とてもよいことがあり、困難が解決された、
先生が行なってくれている儀式のおかげです……といわれた。
が、感謝は、こうした予言を残された聖者や神々にこそされてほしい。
実のところ、皆さんに瞑想をお教えすることで、
もっとも多くを学ばせていただいているのは私自身であると言って過言ではないからだ。
本当のことである。


第113号(2018年3月23日配信)

『不条理』

「佐川さんに証人喚問をしても、何も出てきませんよ」
A氏は、淡々とそう語った。
政治・経済・法律が専門で、本来私などとは関係がないような高い社会的地位にいる
彼とは、なぜか馬が合い、時折、不定期に社会情勢全般について意見を交わす。
昨今の政局の意外な展開を憂う私に対して、氏は普通にそう言うのであった。
「自民党が証人喚問を認めた時点で、もう(佐川さんとの)話はついています。
それ以上の展開はありません」

佐川宣寿(のぶひさ)氏。
中学三年で父親を亡くし、三人の兄が働いて
出来のよかった弟を高校に通わせたという。
東大に入るのに二浪しているので、いわゆる苦学であったのだろう。
卒業後、当時の大蔵省に入ったとき、
家族はどんなにかこれを喜び、誇りに思ったか、想像に難くない。
その後、着実に出世街道を歩んでいくが、
問題となっている土地取り引きが実際に行なわれた当時、
彼はこれと何の関わりもなかった。
税務が専門で、国税庁長官のポストが空くまでの腰掛けで理財局長になったと思ったら
事件が発覚、巻き込まれてしまったのだ。
「なので、報酬についても阿吽の呼吸で決まっているでしょう」
と、A氏は言う。
ここでいう“報酬”とは何なのか。
政権を守るために、法を犯してまで文書を書き換え、
国会では虚偽の答弁を積み重ねた末、喚問にまで応じるということの報酬か。
「内閣官房機密費。領収書なしで何十億か、政権が自由に使うことができる。
かつては、(今もそうかもしれないが)
野党議員にも多くが渡っていた(渡っている)といわれるあれですね」
これについて、私は今もはっきりと覚えている。
政権を獲る前、民主党はその実態を明らかにするのだと息巻いていた。
が、実際に政権に就くや、着任した平野官房長官は
「はて、何のことでしたか……?」と、とぼけて見せたのであった。
つまり、今回のような事件が仮に民主党(今は民進党というらしい)
政権下で起きたとしても、そのときには民進党と官僚が
同じような対応をするということである。
実際、そうした事件はいくつもあった。
もちろんそのときは、自民党が彼らを責めたてたのだった。

今回、前文部科学事務次官の前川氏が、佐川氏に進言している。
曰く、「官僚は、辞めれば何でも言える」また、
「本当のことを言えば、幸せになれる」……
そうかもしれない。
だが、辞めても本当のことを言えない人もいれば、
本当のことを言っても幸せになれない人もいるだろう。
現に前川氏は本当のことを言ったがために、
出会い系バーに通った過去をマスコミにリークされたのであった。
奥様やお子さんは、どんな思いをされただろうか。
また、現職のときはさんざん政権のために嘘も言い、仕え、高給をとってきたのに、
辞め(させられ)たら途端に手のひらを返すのか、という批判もあるだろう。
どちらにしても、相対界は生きにくいのである。
正直な人にとっても、嘘つきにとっても。

かつてマハーバーラタの大戦争が起きたとき、
聖者ビーシュマや天才ドローナは帝王家、すなわち悪の側に加担した。
帝王家から禄を食んできたという、それだけの理由で、
彼らは邪悪な側に組みしなければならなかった。
それが彼らなりのダルマであり、生きる道だったのである。
今回、佐川氏もそのような“ダルマ”を選ぶのだろうか。
それがひとたび官僚となった者の“道”なのか。
それにしても、ビーシュマもドローナも、
最終的には自分たちは破滅に至るということを知りつつそうしたのである。
果たして佐川氏に、そうした認識や覚悟はあるのか。
氏のことを想うとき、そこはかとない哀しみを私が感じる所以である。

つい最近出てきた予言は、こう語っている。
『(おまえの)祖国の指導者は、大変不安定な情況にある。
気の狂った王は、いまも諸国を脅している。
弟子のなかにも、苦しみに突入していく者たちがいる。
彼らは現状に気づいていない。
これらを軽減し、解消するために……』
特殊な儀式を、ヴィラック・プージャの特別な形式で行なうようにという指示である。

このパリハーラムは、見つけること自体が難しいだろうと、もともと予言されていた。
出てきたとしたら、それは私たちの幸運を意味しているとも書かれていたが、
その後、断食やプージャを含むさまざまな努力の末、見つかったものだ。
皆さんは、4月1日のセミナー後のプージャに可能ならおいでいただき、
是非ご一緒にお祈りいただきたい。
プージャ後の食事は、インドの料理人が沐浴し、マントラを唱えて作った特別なものを
バナナの葉の上に盛って召し上がっていただくことになる。
人数を把握したいので、必ず、メールか電話でお申し込みをいただきたい。


第114号(2018年4月14日配信)

『蝶の羽ばたき 2』

2017年9月発行プレマレターVol.36のエッセイ『蝶の羽ばたき』では、
1962年秋に勃発したいわゆる「キューバ危機」の際、
さまざまな幸運が重なった結果、偶然、核戦争が回避された様子を述べた。
また、現在7年が経過した福島原発事故でも、
一つ対応を誤れば、大げさでなく、東日本には
二度と人が住めなくなってもおかしくない情況であったことにも触れた。
実際、あのとき、海水の注入を止めるようにという東電本店からの指示に対し、
当時の吉田昌郎所長が「分かりました」と口では答えながら、
実際には注入を続けるよう部下に指示した記録が残っている。
この国を救ったと言っても過言ではない吉田氏は、その後白血病に倒れ、亡くなった。

2月に巡礼したばかりのイスラエルは、
米国大統領がエルサレムを首都と認定してしばらく不安定化していたが、
実際に旅行してそのような不安は一切感じることなく帰国することができた。
不具合は、たとえば、安息日に行き先階のボタンを押すことも仕事として禁じられているので、
一階ごとにエレベータが停止する、といった文化的なことで、
むしろそれくらいでよかったともいえる。

ところが、その隣国のシリア情勢は容易ではない。
この国は、しばらくの間テロ集団である「イスラム国」に蹂躙され、
そのなかで日本人ジャーナリストが命を落とすという痛ましい事件も記憶に新しい。
イスラム国については、先進各国の協調した対応により、おおむね鎮圧された模様だが、
この度、この国では化学兵器が使用されたようだ。
しかもそれは、政府が、反体制派とはいえ自国民に対して行なったとされている。
日本のような平和な国に生まれ育ったわれわれにはピンとこないが、
西側の指導者たちは事態を見過ごそうとはしていない。
反体制派の武装組織だけではなく、女性や子供までも巻き添えになって
多数が死傷したわけだからそれも当然であろうが、現地は凄惨な情況だという。
われわれが映像で見るように体中に水をかけられ、
吸入をさせられている子供たちはまだよいほうで、
そんな処置を受けることなく悶え苦しみ死んでいった子女も多数いるだろう。
問題は、このような非道を繰り返すシリア政府の背後に、ロシアがいるということだ。
というよりも、今やシリアとロシアはほとんど一体であるともいわれる。
実際、「24時間から48時間のうちに重大な決断をすることになるだろう」
という米大統領の警告に対し、
ロシア政府は、「ミサイルを撃つならそのすべてを撃ち落とし」
さらには「ミサイルの発射元をも攻撃する」と宣告した。
それに対し、米大統領は、
「ならば準備しておけ、ロシア、なぜならミサイルが飛んで行くからだ」
などと、ツイッター上で挑発するありさまだ。
そうこうしているうちに当初警告の48時間は過ぎたものの、
今日になってアメリカは軍事行動を決断し、
すでに地中海上に展開している空母打撃群が巡航ミサイルを打ち込んだ模様だ。

自分の人生を振り返るとき、後になって足のすくむ思いがすることがある。
なんと愚かにも、なんという危険を犯し、なんという偶然に助けられたか……
そんな場面がいくつもあった。はっきり言って今回の人生、
すでに何回か死んでいてもおかしくなかったと私は思う。
そしてそれは、国の命運も、世界の歴史も同じなのだ。
真実は常に、後になってから分かる。
そのとき、どのような危機を自分たちがくぐり抜けていたのか、
どのような危機の淵に立たされていたのかを初めて知ることになる。
いや、それらが本当に分かるのは、人生が終わった後なのかもしれないが……。

ロシアは、「シリアへ軍事介入するなら、
それは政府の依頼を受けて駐留しているわが軍が容認できるものではなく、
最悪の結果を招く恐れがある」と警告している。
米大統領も、世界に対してさまざまな脅しをかけ、
“頭の狂った北の王”もまた、そうだ。
実際、今回の予言にはこう書かれていた。
『精神的に正常でない指導者らが、諸国を脅している』−−

そんな予言が正しいと思える時代にわれわれは生きているが、
そうであっても、行なうべきことには変わりがない。
自分に与えられた仕事を誠実に行ない、役割を忠実に果たす。
できれば儀式に与り、祈りを捧げ、瞑想によって深い意識状態を経験する。
苦しんでいる隣人がいれば、可能なかぎり助ける−−。
地球の裏側の蝶の羽ばたきのごとく小さなことのように見えても、
そうしたことの一つひとつが世界全体に肯定的な影響を与えることは、
何もかもが不確実なこの時代にわれわれが知りうる、
間違いのない事実なのである。


第115号(2018年8月8日配信)

『女神との出会い』

南インド、ポンディチェリの村で千年以上にわたり信仰されてきた女神。
彼女は祭りの朝、寺院を出、とある家系の小さな祭壇にお入りになると、
その家系の誰かに降りておいでになるという。
その日、女神は寺院を出て、小さな祭壇にお入りになった。
日本からの巡礼団は、外で楽隊による盛大な音楽と踊りを堪能していたが、
伝令がやってきて、五人だけ中に入れてよいという。
敬虔な人びとの集まりのなかで五人を選ぶのは難しかったが、
なかに一人、躊躇なく選んだ方がいた。
地方の都市から遠路参加されていたというだけではない。
彼女・Mさんのことは、この日の祭りを私がお捧げすることになった
シヴァ神の予言のなかに示唆されていたのであった。
『これから困難な情況に入ろうとしている弟子がいる。
その者は、そのことに気づいていない……』
書かれていたとおり、病は働き盛りのご子息に速やかに忍び寄り、
大きな商家が傾きかけるほどの大事に発展したのだった。
本来、こうして旅行においでになれるような情況ではなかったにもかかわらず、
Mさんの信仰は、文字通り万難を排してインドの地へと彼女を導いた。
彼女は、小さな祭壇の前で僧侶が唱えるマントラを耳にする前、
設えられていた女神像を目にするや、感涙にむせんだ。
このとき、家系に伝わる予言が今年も成就し、一人の男性に神が入った。
突然声を上げ、体が硬直して倒れそうになったので、周囲が彼を抱き抱えた。
呼吸は荒く、人間の体に神が入ることに順応する時間が必要なようだ。
ほどなくして落ち着いてきたが、
その眼差しは、いまだ神がそこにおられることを明瞭に示していた。
神に入られたその人なのか、その人に入った神なのか……
彼はしばし周囲を見回すようにしていたが、
やがてMさんに視が止まった。彼女をじっと見つめ、おもむろに口を開く。
『聞きたいことがあれば、聞きなさい……』
急いで、通訳してくれる人を呼ぶ。意味を知るや、Mさんは躊躇うことなく問うた。
「私の今生の使命について、お教えください」
答えは、即座に返ってきた。
『おまえのことはわたしが守っているから、心配はいらない。
物事は成就していく……』
そうしてさらに、具体的な指示をお与えになったのだった。

この日、私にはそれとはまた別の“指示”が与えられた。
『次に新しい瞑想の技術を習う人のために、
瞑想の基礎をもう一度教えるのが望ましい』
そう私に告げたのは、降りてこられた神ではなく、予言の読み手である。
以前より探していた予言の章がこの日新たに見つかり、
その一部が私に伝えられたのであった。
 
女神に捧げる盛大な一日の祭りの、それらは始まりにすぎなかった。
その後私たちは女神像をふたたび寺院にお戻しし、長いプージャに与った。
貧しい人びとに昼食を振る舞い、夜、今度は女神像を山車にお乗せした。
楽隊と芸人が繰り出し、私たちも大きな掛け声をかけながら山車を引き、
あるいは一人ずつ山車に乗り、夜遅くまで祝いの品々を
村の人びとにお配りするという光栄に浴することとなった。
十年前、これに参加したとき、興奮は朝まで収まらなかった。
今回は一緒に高揚してくれる仲間たちがいて、
それがまた、私にとってこの上ない喜びになったのだった。


第116号(2018年10月15日配信)

『聖天』

京都・奈良に行かなければならないことが決まったとき、
すぐに想い浮かんだのは生駒山聖天であった。
巡礼の日取りや車の同乗可能人数など、さまざまなことを勘案し、
最後に残った巡礼の候補日は、10月の最初の三日間であった。
これを逃すと、もう日程はとれなくなってしまう。
とりあえず、10月1日で京都・奈良を日帰りし、
2日、3日は通常どおり検索を行なう予定を立てていたところ、
にわかに台風24号が発生してきた。
台風の進路予想図と上陸予定日は日々変わっていったが、
最終的に、ちょうどこの日、近畿地方を直撃するであろう可能性が高まってきた。
現地の方にうかがうまでもなく、台風のさなか生駒山に登るのは不可能だ。
10月2日、3日の検索の方たちに恐る恐る聞いてみると、
どの方も、1日と予定を交換することは可能とのことだった。
台風後の影響、その他さまざまな要素を勘案すると、
巡礼を3日に移すほうが安全なのは明らかだ。
そのつもりで私も調整を始めたが、直前、何人かの方にお断りをして、
私はこれを2日に変更させていただいた。
頭で考えても、どちらがよいのかは分からなかった。
ただ最後の段階で、どうしても巡礼は2日にしたほうがよいような気がしたのである。
2日の検索予定だった方に1日に代わっていただいたところ、この日の皆さんは、
まずインドでプージャを行なってもらってから読むようにという指示だった。
こうした指示は、当日になって、予言の葉のなかに発見される。
なので結局、この日の方は読めないこととなり、私は2日、生駒山に向かった。

そびえ立つ生駒の山のお堂に入ると、以前と同じ厳粛な雰囲気に打たれる。
昨年、飛騨で思わぬご縁をいただいてから久方ぶりであったが、
この日、私は一つだけ、どうしてもお願いしたいことがあった。
個人的な、というよりは私の生徒さん全体に関わる願いで、
とりあえず二週間から一カ月経たないとどうなるかは分からないことであったが、
私はこの聖天様にお願いしたかったのである。
先日皆さんにお教えした<Art6>は、特にこのようなときに用いられる。
こうしてかけられた願いは、通常は自然にかなっていくものであるが、
ただ、この場合は少し様相が違っていた。
このとき、聖天様は祭壇からお出ましになって、
この願いが数日のうちに叶えられることを告げられたのだ。
また、私はこのときの瞑想中に、翌3日の検索は予定どおりできること、
重要な内容がそのなかに含まれることを知ることになった。

その日の夜のうちに帰京し、翌日はなにごともなかったかのように
お二人分の検索を行なったが、ともに特別な記述が現れた。
大きな儀式と慈善をインドで行なうこととなり、
そのために日本で行なうプージャについては、
月末、私がインドに発つまでに行なうよう指示されている。
これらによってもたらされる恩寵にできるだけたくさんの方に与っていただくため、
急遽21日(日)、特別に会場を借り、セミナーとプージャを行なうこととなった。

ちなみに、本来は半月、または一カ月かかるはずであった私の願いについては、
肯定的な結末が5日に決まり、翌日、私のもとに報せがもたらされた。
ガネーシャ神のお出ましを誘ったように見える<Art6>については、
もともと8月にお教えしようとしていたのであったが、
予言の指示により、10月にずれ込んだのだった。
その理由について、当時はまったく分からなかったが、
今にして思えば最初から、この技術にまつわる神々との交わりを
私自身がいま一度経験してから皆さんにお教えするのが、
聖者の意図された順番であったのかもしれない。

そして、もう一つ分かったことがある。
日本の聖天様をガネーシャ神と考えるのは“俗説”であるともいわれている。
が、こうして聖天様の祭壇に祀られているのは
まごうことなきガネーシャ神ご自身であると、私は知ることとなった。
皆さんとご一緒に巡礼などしていると、
こうした経験と新たな気づきがもたらされる。
神々に対してそうであるように、関係した皆さんに対しても、
私はいつも感謝したい気持ちになるのである。


第117号(2018年12月17日配信)

『聖夜』

神さまが創ったはずのこの世界に、
どうしてこんなに苦しみや悲しみがあるの?
敬虔な人であれば、どんな子供でも一度や二度はそう思う。
そうした信心を嫌う人は、逆に、これほどの悪と悲惨を思うとき、
この世に神などがいようはずもないという。
それに対してキリスト教は、
最初の人類が神の掟を破ったことで人類全体が「原罪」に染まり、
さらには天使の一部が神に反逆して悪魔になったことで
世界はますます苦しむこととなったと教える。
しかし、全能の神は、そうならない世界をお創りになることもできたはずだし、
全知でもある神は最初からすべてをご存じだったはずだと思えばと、
問題は見事、振り出しに戻る。

一方、ヴェーダ科学を学び、実践する私たちは、
「苦しみ自体が存在しない」という立場をとることもできる。
実際、すべてはマーヤー(幻)であり、
われわれはちょうど、映画を観ながら主人公に自身を投影し、
喜んだり悲しんだりしているにすぎない。
本当の自分は映画の内容とは関係がないという考え方だ。
これは究極の解釈かと思うし、事実そうなんだろうとも思う。
ところが、そのことを知り、認識を高めたと思った自分も、
いざ現実の問題に直面すると、やはり苦しい。
「苦しみは幻、本当の私は苦しんでいない……」
などと言って飄々とはしていられないのが、
生身で生きるわれわれの“現実”というものだ。

結局のところ、こうした「現象」の世界と真の「自分自身」とが
実は別物であるのを知ることが、
いわゆる「悟り」の境地と呼ばれる。
が、人は一度には悟れない。
世界のなかで、日本に生まれ、さまざまな現象が押し寄せるなか、
家族や仲間と一緒に荒波を乗り越えながら、徐々に人は進化していく。
……にしても、その進化がまた、遅々としてなかなか進まないのである。
そんなことを百も承知であった聖者たちは、
本当は“幻”であるのだが、苦しむ衆生のために、
さまざまな方策を残しておいてくれた。

『祖国と弟子たちのために、来年4月14日までに3回、
瞑想の師は大規模なパリハーラムを行なうことになる』
という記述が出てきたのは、今年3月だった。
『弟子のなかには大きな危機に向かっている者がおり、
彼(彼女)はまだそれに気づいていない』とも書かれていたが、
そのうちのお一方とその後インドを巡礼した際、
祭祀で降りてこられた神さまがじっと彼女を見つめ、
話しかけてこられたことは、すでにこの欄に書いた。
予言されたなかの二つ目のパリハーラムは
いつ出てくるのだろうと思っていたが、
その日は忘れることのできない日となった。
その日、母が亡くなり、
予言のなかにはそれについても言及されていたからだ。
このパリハーラム自体は日本と弟子たちのためであるが、
たとえばそのために儀式を行なうシヴァ神のご家族の寺院は、
私と母の年齢を足した数(157)にするように、
またそれぞれの寺院ではそれぞれ157人の貧しい人たちに
食事と衣類をふるまうように、といったかたちで、
その日、別の世に移っていった母について
配慮されていることも明らかだ。

今回のパリハーラムも、可能なかぎりの皆さんに
参加・享受していただくようにとの指示なので、
ふたたび特別なセミナーとプージャの日を設けたいと思う。
12月24日は祝日だが、四谷の会場を借り、
特別セミナーとプージャを行ないたい。
奇しくもクリスマスのこの日、
ヨガナンダの自叙伝はアダムとイブの話となる。
人がいかにして原罪に陥ったのか、
そうではない状態も可能だったのか、
可能だったとしたらそれはどのような世界になったのかといった、
驚くべき記述が続いている。

同日、会場のすぐ近くにある聖イグナチオ教会では
壮麗なクリスマスミサが行なわれる。
プージャ後、ちょうどよいくらいの時間があるので、
希望される方は聖なる夜、
そちらに流れていかれるのもよいかもしれない。


第118号(2019年2月12日配信)

『還暦』

今となっては前世紀の終わり、カリフォルニア州立大学で数年教えた後、
帰国して最初にした仕事の一つはラジオ番組だった。
『The Aquerius』は日曜の朝、FMヨコハマで放送されたが、
収録は英語の達人DJとして有名な小林克也さんのスタジオで行なった。

最初の打ち合わせのとき、そのときどきの話題の曲と私のエッセイ、
またはトークを組み合わせて番組にしようということになり、
「先生はどんな音楽がお好きですか?」と聞かれた。
それに対して、「う~ん、そうですね……
バッハのチェンバロ協奏曲とかオルガン曲とか……」
と答えると、一瞬、エッという顔をされた小林さんは、
「じゃ、うちの草野に選曲させますから」と言われたのだった。
今思えば、お恥ずかしいかぎりである。

まだ若かったスタッフの草野君は、一見芒洋としていたが、
なかなか鋭い感性の持ち主で、当時まだ無名だった宇多田ヒカルや
スガシカオなどの曲を掘り出してきて流してくれた。
いや、無名というのは失礼で、
本当はすでに評判になりつつあったのかもしれない。
だが、私がまったく知らなかったことには違いがない。

小林克也さんは実は福山のご出身で、
市立霞小学校を卒業されたことをこのとき初めて知った。
この学校は母が長年奉職したので、
ひょっとしたらなにかしら接点があったのかもしれない。
ちなみに、私が通った光小学校は、
小学校の児童数が増えすぎたために設立された、いわば分校である。
私の人生に「光」という言葉がいたるところで登場するようになった、
これが最初であった。

ラジオ番組が続いている間に、小林さんは還暦を迎えられた。
DJとしての地位を確立され、自前のスタジオまで持たれた方だったので、
お祝い会には音楽関係者、芸能関係者らのきらびやかな姿があった。
最後に小林さんご本人が神輿に乗って登場されたが、
真っ赤なちゃんちゃんこを着ておられたのには驚いた。
実は、還暦を迎えた男が赤いちゃんちゃんこを着るなどということを、
私はこのとき初めて知った。
そして、それらを贈った人には幸運がやってくるとのことであった。
功成り名遂げた人の晩年って、こんな感じなのかと、
ぼんやり思ったのを今も覚えているが、
自分にもいつかそのような年齢がやって来るなどということは、
このとき想像することもできなかった。

かつて、30歳のときに買った大型テレビが50歳で壊れ、
液晶に買い換えたときの顛末をこのエッセイに書いたことがある。
そのとき、同じだけの年数、この新しいテレビを使ったら
自分は70になる計算だと思い至り、驚いた。
まさかそんなときが来るとも思えなかったが、しかし30から50までが
あっという間だったことを思えば……
などと考えているうちに、なんとその半分が経った。

こうして、私たちにとっては刻むようにして過ぎていく一瞬、一瞬であり、
一年、一年であるが、宇宙全体のことを思えばビッグバンから今日まで、
138億年が淡々と過ぎ去ったことになる。
さらに数十億年が経てば私たちの太陽は赤色巨星になるだろうが、
そのはるか前の段階で、地球は現状のようには存続できなくなる。
そうしている間にも、この宇宙の、われわれの知らない銀河系、惑星系では、
まったく違った系統の知的生命が生まれ、
愛しあい、憎みあいしながら生きているかもしれない。
われわれの想像もできないところで宇宙自体が生まれ、
そうして消えているかもしれない。

『天地は過ぎ去る』(マタイ24・35)と、かつてイエスは語った。
まさにそのとおりなのである。
私にとって60年が、皆さんにとって40年が、50年が、70年が
確実に過ぎ去ったように、いずれわれわれの誰もが死に、
地球も太陽系も、銀河系も、そしてこの宇宙自体も終わるときが確実にくる。

しかし同時に、イエスは
『だがわたしの言葉は過ぎ去らぬ』(同)とも言った。
われわれの身体は死んでも、意識のもっとも深いレベルが死ぬことはない。
真理そのものが変わることもない。
肉体を持ち、相対界に生きるわれわれは、ときの流れを儚いと思うが、
しかし常に、これを超えていく力と、その権利をもっている。

問題は、相対界で仕事をしながら瞑想し、そこまでたどり着くのに、
一度の人生では時間が足りそうにないことかもしれない。
実際、60にもなってなお、私はさまざまな現象に囚われ、苦しめられている。
しかしそれでも、われわれはその作業を続けていき、そうしていつか、
誰もが真のゴールに到達することだけは、間違いのない事実だと信じている。


第119号(2019年2月28日配信)

『魔法』

子どもの頃から魔法使いの物語が好きだった。
そしていつか、自分も魔法を使えるようになりたいと思っていた。
今はマジック・ショーが好きだが、偽物が存在するということは、
どこかに本物が存在することを意味している。

今思えば、魔法というものがこの世に存在することを、
私は最初から知っていた。
大学や大学院で科学を専攻した。
研究を重ね、博士号を二つ取得した。
今にして思えば、いつか私が魔法を実践し、
それについて語るとき、人びとに信じてもらうためだったのかもしれない。
もっとも、専門的に学べば学ぶほど、研究すればするほど、
現代の科学理論もまた、ある種の魔法を語っているのに
気づいていくことになったのであるが。

実際の魔法には、使ってよいときとそうでないときがある。
使う者は、人生にある一定の制約を受けることがある。
本人の意図に関係なく、魔法が、または「法」が発動することがあり得る。
そして一般に、多くを語ることが許されていない。

『あるヨギの自叙伝』の解説を始めたときから、
第18章を解説する日を私は心待ちにしていた。
そこには、一人の魔法使いの、真実の物語が記されている。
神秘で、不思議に満ちみちた『自叙伝』のなかでも、
この章が最も好きなのはその理由からだ。
そのなかで私は、いくらかこの世界の秘密を語ることができるからだ。

折しもこの日、プージャが行なわれる。
8月、11月、1月とインドを巡礼するように指示された方が、帰ってきたらすぐ、
次の予言を読むようにと書かれていた。
1月後半、私と事務局は検索をしないつもりでいたのだが、
そういうわけでその方の予言をお読みしたところ、次の指示が出てきた。
この1月、マカラ・サンクランティの大祝日に
数人の貧しい人たちを聖サバリ山巡礼に送ったが、
さらに日本でアイヤッパ・プージャを行なうようにということだ。
そのために、多くが準備されてきた。
この強い指示に従い、3日(日)、プージャが行なわれる。

このプージャに与ることのできる人は幸いだ。
その皆さんは、重いものを頭に載せ、裸足、徹夜で聖サバリ山に登ったり、
その他の苦労をすることなくして、この功徳に全面的に与ることになるからだ。
アイヤッパ神とは、そういう神さまだ。

後になって、どうしてあのとき呼んでくださらなかったのですかと
言われたことが何度かある。
そうならないよう、今いちど、ここにエッセイをお届けしたい。


第120号(2019年3月14日配信)

『沈丁花』

沈丁花の薫りの漂う季節、必ず心に思い浮かぶ光景がある。

今となっては前世紀のことだが、1992年の春、一連の医学論文が審査にかかり、
私は医学博士の学位をとれるかどうかという局面を迎えていた。
麻酔物質の代謝を論じたこの論文は、従来のようにマウスに麻酔を投与して解剖、
内臓を切り刻むという手法をとっていなかった。
純粋に物理化学的な方法で、その代謝経路を推定したのだ。
内容には自信があったものの、量子力学が必然的に絡んでくるこの論文を、
果たして医学部の先生方に理解してもらえるかどうかには確信がなかった。

講師の先生からは、「毎年春には教授を料亭にご招待してください。
菓子折りは最後に渡します。
まあ、100万円も入っていればだいたいいいでしょう」などと言われていたが、
私には想像もつかないことで、まったくやっていなかったし、
そのことがどのような結末を生むことになるのかも予測できなかった。
こうした慣習は、少なくとも当時、私立の医学部には普通にあったし、今もそうだという。
昨今も、私立大学医学部や、医師に関するさまざまなニュースがメディアに流れるが、
驚くことは何もない。

「100万円の菓子折り」を数年に渡り怠っていた私は、しかしさすがに、
学位審査に臨んで“封筒”を用意していた。
それは、当時私に準備できたやっとの厚みしかないものだったが、驚いたことに、
審査に当たってくださった教授は3人とも、その封筒を受け取られなかった。
大学病院長を兼ねる大先生に、「研究にはお金がかかるでしょう、
これもそのために使いなさい」と言われたときは嬉しかった。
また、もうひと方、新進気鋭の若手教授は、
「この業績を海外で発表したらいい、そのために使ってください」と言われた。

審査が終了し、外に出ると、薄暮れのキャンパスに沈丁花の白い花がほころんでいた。
それを見てしばらくその場にたたずんでいると、後ろから声がした。
「こうして毎年、この季節には沈丁花が香る。自然界の神秘ですね」
私の担当教授だった。
かつて医局で、致命的な輸血ミスがあったとき、
「ご家族には事実をそのまま伝えるように。責任は私がとる」と言われた、あの教授である。
そのとき、医学的にはあり得ないことだが、
患者は特段の重篤な状態に陥ることなくこの危機を切り抜け、
辞任を覚悟していた教授はそのまま残られた。
結局、この方のおかげで私は長期でインドに赴くこともでき、また二つ目の学位をとって、
後に『理性のゆらぎ』を上梓することとなる。

さらにずっと後、日本で瞑想を教えるようになる過程においても、
神秘で、あり得ないことがさまざま介在した。
それらの不思議な物語については、21日(木)春分の日、
四谷のエイトスターダイヤモンドで講演をさせていただく予定だ。

私が瞑想を教え、予言を読み、聖典を解説し--それについて、
人間の精神性に深い関心をお持ちであった教授がご存命中ならなんと言われたか……。
この季節、沈丁花の薫りに触れる度、そんなことを思い出す。



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