メールマガジン<プレマ通信>

青山圭秀エッセイ バックナンバー 第11号 – 第20号

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第11号(2006年12月20日配信)

『クリスマスによせて』

年の瀬、24日は今年最後の<プレマ・セミナー>となります。
折しもクリスマス・イブ。
聖母マリアが「受胎告知」をされる有名なルカ福音書の部分の解説を、
実はこの日のために残しておきました。

医者であった聖ルカは、イエスの直接の弟子ではありません。
しかしそれだけに、直接イエスと交わった多くの人に取材し、
他の福音史家にはない詳細な記述を残した部分があります。
「受胎告知」はそうした部分の代表とされ、
多くの芸術家の想像力をかきたててきました。

いまだ十代の半ばであったろう乙女マリアのもとに、
大天使ガブリエルが遣わされて言います。
「めでたし、恵まるる者よ、主、汝(なんぢ)と共に在(いま)せり。
 見よ、汝、身籠もりて男子を産まん。その名をイエスと名づくべし」

これを聞いたマリアは心騒がせ、天使に言いました。
『われ未だ男を知らぬに、如何にしてこのことのあるべきや』

天使は答えて言います。
「聖霊、汝に臨み、いと高き者の力汝を被わん。
 この故に汝が産むところの聖なる者は、神の子ととなえらるべし……」

世界に15億とも20億ともいわれるキリスト教徒のすべてが、
この有名な箇所を幾度もなく読み聞きし、多くの人は文字通り信じています。
聖母マリアと大天使ガブリエルとの間にこうした会話があって、
後に神の子であるイエスが生まれた。しかも、ローマ・カトリック教会は、
『われ未だ男を知らぬに……』という聖母の言葉を、
彼女がこの時点において、すでに生涯貞潔であることの誓いを立てていたと解釈しています。

が、驚いたことに、現代の聖書学の趨勢はこうした解釈をとりません。
聖母と大天使との間に、文字通りこの会話が交わされたかどうかは疑わしく、
まして、この時点で彼女が純潔の誓いを立てていたという根拠は、聖書学的には弱いのです。

それでも、マリアは乙女のままイエスを身籠もり、産んだのではなかったのかと問われれば、
私はそうであったと確信しています。では、実際にはどのようなことがあったのでしょうか。

当然のことながら、神が人として生まれるなどということは、
私たちが通常の理性で理解できるものではありません。
しかし、神人(かみびと)の降誕にまつわる神秘を知りたいという強い欲求に、
私たちの誰もが捕らえられます。
イエスを産んだマリアは、真実、どのようにしてその地位につくことになったのか。
われわれの知らない、教会も知らない、または語らないどのような神秘が、
そこにはあったのか……。

24日のクリスマスは、イエスの降誕祭にふさわしいそうした話題について、
集中的にお話ししたいと思っています。


第12号(2007年1月1日配信)

【目標】

新しい年を、
皆さまお健やかにお迎えのことと思います。

年が始まったとき、まだ充分な時間があると思っても、
終わってみれば早いものです。
そして今年も、まだ充分な時間がありそうに見えるのですが、
速やかに過ぎていきそうです。

私たちはそうした時の流れのなかで、
それぞれのなすべきことを成していく他ありません。
さしずめ私にとって、今年の目標は、
セミナーを昨年以上に充実したものにすること。
特に、いよいよ【ヨハネによる福音書】冒頭の解説に入る1月13日は、
いいお話をしたいと思っています。
また、<木曜くらぶ>でお話ししている【バガヴァッド・ギーター】は、
以前<プレマ・セミナー>でお話ししたときよりも深みを増すこと、
今年は瞑想の新しい技術をお教えすること、
4月6〜8日の長崎、10月6日〜のルルドでは、
もっとも充実したコースを編み出すこと……。

そんなことをいろいろ思案しながら新しい年を迎え、
お正月を過ごします。
今年もよろしくお願いいたします。


第13号(2007年2月9日配信)

チャリティ・コンサートへのお誘いと、
主催される山本順子さん・田中陽子さんのこと

西暦2000年の大晦日は、世紀が替わるという、
普通の人は一生に一度しか経験できない特別な日でした。
読者の皆さんからはこの日をキリスト教の聖地で過ごしたいというご要望があり、
フランス・イタリアの巡礼旅行を企画しました。

そのとき、カナダ・トロントから参加されたのが山本順子さんでした。

私たちはパリで落ち合った後、聖母マリアがご出現になって
「不思議のメダイ」を残された愛徳姉妹会、パリ・ミッション会、
ルルドで聖母マリアと語らった後、
亡くなって一世紀を経ても遺体の腐敗しない聖女ベルナデッタが今も息づくヌヴェール、
世紀の明けた元旦にはローマ・4大聖堂の「聖なる扉」をくぐり、
翌日は聖フランシスコのアッシジ、最終日はローマ法王ヨハネ・パウロ二世の謁見と、
忙しい旅をご一緒しました。

そんななか、山本さんの人柄がなんとなく伝わってきて、
世界を飛び回る経済人として多忙な日々を送る彼女がどのようにして聖なるものに触れ、
導かれていったか、また、彼女が仕事以上に精力を注ぐ慈善活動について、
自然に話し合うようになりました。

旅のなか日、20世紀が終わり、21世紀に替わるとき、
私たちはパリのコンコルド広場にいました。
霧雨のけぶるなか、古代エジプトのオベリスクがライトアップされ、
カウントダウンとともに21世紀が明けると、
誰彼となく自然に互いを抱擁しあいましたが、
同時に、新たに始まった世紀には世界中の人びとが少しでも健康で、
幸せであってほしいと願いました。

昨年始め、トロントから電話があって、
07年のチャリティ・コンサートの収益は
大木神父の活動のために使いたいというお話があったとき、
コンコルド広場で一緒に祈った、今世紀最初の祈りを思い出しました。

その山本さんの慈善活動のパートナーである田中陽子さんは、
今回は歌のほうでも出演されます。
もともと声楽家であった彼女は、
スペイン大使夫人として赴任中も活動を続けられた関係でスペインに友人も多く、
今回の豪華な『スペイン音楽の夕べ』が実現しました。
中学・高校時代からの親友だった二人は、かたや起業家、かたや外交官夫人となった後も、
社会的に弱い人びとを助けたいという思いは同じで、
今回、チャリティに関するさまざまな意見交換もさせていただきました。

コンサートの収益金は、その全額が新たに建設される
ポカラの障害児教育センター(シシュビカスケンドラ)のために使われます。
皆さんのなかには、
日頃から大木神父の活動にご援助いただいている方も数多くおられますが、
3月22日、もしもご都合が許すようでしたら、足をお運びいただければ幸いです。
その日会場で、または会場の外で、ポカラの会の倉光誠一先生とご一緒に
少しでも多くの方にお目にかかれたらと願っています。


第14号(2007年5月15日配信)

先日、二週間ほどインドに行ったときの模様を、
<プレマ・セミナー>や<瞑想くらぶ>のときに写真入りでお見せし、
いろいろなことをお話ししました。
なかでも、何人かの方から、結婚式のことについて聞かれました。

実は今回、インドで結婚式を執り行ってきたのです。
私の……ではありません。何組かの貧しいカップルの、です。

17年前、最初にインドに行ったとき、
3カ月ほど滞在した間に、知人の結婚式に呼ばれました。
最初の一組はお金持ちのカップルで、
ムンバイのタージマハールホテルや大きな寺院等、
さまざまな会場を借り切って毎日ヴェーダの祭祀が行なわれ、
終わればパーティに興じる。これがまるまる一週間続きました。
昔は、式は二週間も続いたものだ、などと言いながら、
インドだけではなく、世界中から集まった一族郎党が、
豪華ホテルで優雅な暮らしを楽しんでいました。

次に招かれた式は、アーユルヴェーダ大学のあるジャムナガールで、
貧しいカップルでした。
花婿が晴れの舞台で履いていた靴が、
1000円くらいで買えそうなスニーカーだったのが印象的でした。
式は、青空のもと、執り行われましたが、
これらの“一張羅”を揃え、僧侶を呼んで儀式を行なってもらい、
曲がりなりにも人びとに食事を振る舞うため、両親は借金をし、
おそらくこれから一生かかって返すのだろうということをチラと耳にしたとき、
涙が出そうになりました。
それが、彼らの人生の門出なのです。

そんなことがきっかけで、可能なかぎり、
本当に貧しくて結婚できないでいるカップルの結婚式を出して差し上げることが、
私のダルマに付け加わりました。
今回は、新たに建ったムルガ神の寺院で3組のカップルが同時に式を挙げましたが、
おそらく村人のなかに、外国人をみたことのある人は皆無だったのでしょう、
皆が穴のあくほど私のほうを見ました。
お寺が完成し、結婚式が挙げられるとき、その外人が来るということを、
いろいろ聞かされていたのかもしれません。
そして、最後に私から、彼らにいろいろな物を直接手渡すという段になって、
なんと花嫁がこんなことを口にしたのです。
「どうして私たちに、こんなによくしてくれるのです?」

その問いに、私は答えることができませんでした。
どうやってこの問いに、簡単に答えることができるでしょうか。
ただ、心のなかでは思いました。
きっと悠久の過去から、われわれの間に何かのつながりがあったに違いない。
そうでなければ、こんなことになるはずがないと。
そうして、これから先また何度も、さまざまな国や民族に生まれ変わるとき、
そのとき、何かのかたちで、われわれはどこかで出会い、
言葉を交わし、または人生のなにがしかを共有するのかもしれない。
わずかに触れ合った短いときの間に、
私はそんなことを想っていたのでした。


第15号(2007年7月24日配信)

『黄金色(こがねいろ)の想い出』

拙著『アガスティアの葉』に登場する大木神父は、
私たち広島学院十六期生が中学一年に入学した年からクラス担任をされた。
学校では何の科目を教えられたのですかと聞かれることがあるが、
一般の学校の道徳に当たる「倫理」である。
その他に、課外での聖書講座を担当されたが、
こちらは宗教研究会、略して宗研といい、
中学一年時、4、50名の生徒がいた。

高校3年、卒業が近づいた頃になって、突然、
私たちの卒業を待って自分はネパールに赴任するつもりだと打ち明けられた。
その頃、宗研のメンバーはたった3人に減っていたが、
あるとき、修道院内の宗研室に集まると、
彼は突然「今日は聖書を読むのはやめて、献血に行きましょう」と言い出した。
車を出され、私たちは後部座席に乗って、広島市内の献血ルームに行った。
そして、終わった後、市内を横切り黄金山に登った。
当時、マツダの工場が近くにあったと記憶している。

いつも学校のある山から遥か反対側に望んでいた黄金山(おうごんさん)に登ったのは、
広島に六年いて初めてだった。
頂上に着くと、市内全域が見渡せ、今度は反対側の山に学校が見えた。
そこにあった小さなうどん屋さんに入ろうかということになり、
外のテーブルについてうどんを4つ注文すると、
ウエイターさんが「うどん、フォー(4つ)」と言ったので、
私たちは互いに顔を見合わせて笑った。
このとき、神父も一緒にクスクス笑われたのが、私には今も忘れられない。

いつも厳しい教師であり続け、
ときには生徒を殴ることすらあった大木神父のそのような笑顔を見たのは、
中学・高校の6年間を通じてほとんど記憶になかった。
私はこのとき、気持ちが高揚していたのかもしれず、
そのうどんの味がどうだったかはまったく覚えてない。
ただ、これから日本を発ってネパールに行き、
そのまま骨を埋めることになるかもしれない、
おそらく、もう日本に住むことはないであろう大木神父の優しさと淋しさが、
鮮やかな黄金色に染まる山の色彩とともに、
一時に押し寄せてきたことだけを覚えている。


第16号(2007年8月21日配信)

エッセイ掲載はありません。


第17号(2007年9月5日配信)

『運・不運』

「ボール!」
判定と同時に、エースは天を仰いだ。
表情は笑っていたが、
内実は「どうして?!」と納得のいかない様子だった。
私も画面を見ていて、ボールには見えなかった。
こうして、押し出しという形で、佐賀北高校に最初の1点が入った。
だが、まだ3点差があった。
これまでの流れからして、満塁ホームランでも打たれない限り、
大丈夫な状況だった。
……が、次打者の3球目、強振した打球はレフトの頭上を超え、
歓声と悲鳴のスタンドに吸い込まれていった。
広陵の勝利をほとんど確信していたすべての広島県民にとって、
これほど悲劇的な瞬間は、今世紀が始まって以来、なかっただろう。
エースは、おそらく感じていたのに違いない。
これ以上、押し出しの追加点を与えるわけにはいかない。
しかし、あのコースをボールにとられるのであれば、
あとは中へ集めていくしかない……。
こうして、ボールは真ん中に入っていったのだった。

球児たちは、勝利をつかむ最後の瞬間のために、
三年間、ほとんど毎日汗を流す。
ときには涙も流すだろうし、血も流す。
そうして、最後に栄冠をつかむのは、ごくわずかな勝者だけだ。
スポーツといえども、まさに人生の縮図。
私は、だから瞑想講座の最終日、
人間の生きる三通りの道(行動の道)を説明するとき、
必ず野球少年の話を引き合いに出す。

一方、勝った佐賀北高校の監督さんは苦労人らしく、
決勝で一方的に負けることだけを恐れていたという、謙虚な人だ。
「最後まで諦めるな!」と、普段から教育していたのに、
この試合では自分自身が諦めかけていたという。
それを、生徒らに思い出させてもらった。
諦めさえしなければ、何が起こるか分からない。
これもまた、相対界におけるわれわれの人生と同じである。


第18号(2007年10月30日配信)

『浄化』

「ゴキブリを退治したる」
このような言葉が、先般の世界戦の前、記者会見で交わされていた。
同席していた、彼らが「ゴキブリ」と呼んだ相手は、
人生の先輩であり、ボクシングの先輩であり、世界王者でもあった。
いかにプロの世界のパフォーマンスとはいえ、
こうしたことが許されるはずはなく、
それはボクシングという「道」に命をかけてきた先輩たちに対する
侮辱でもあった。
どうなることかと思って見ていたら、
反作用は意外と早い時期に訪れ、
充分とはいえないまでも、国民の多くが溜飲を下げた。

『復讐するは我にあり』と聖書にはある。
【ヨハネ】は、イエスの言葉をこう記す。
『あなた方は苦しむだろう。世は、あなた方を憎むだろう。
 だが、勇気を出せ。わたしはこの世に勝ったのだ』
相対界に生きていて、われわれは、
どうして、このようなことを神はお許しになるのかと感じることがある。
相対界は、不条理に満ち満ちているという他ない。
だが、心配はいらない。
それぞれが講ずるべき適切な措置はあろうが、
「復讐」までする必要はない。
懐の深い自然界は、しばらくそれを放置するかもしれないが、
いずれ浄化作用を起こし、
それは表層の世界にざわめきを与えはするものの、
同時に安らぎも与えてくれるに違いない。


第19号(2007年12月20日配信)

エッセイの掲載はありません。


第20号(2008年1月1日配信)

『寿命』

知人のなかに、稀にテレビを置かないご家庭がある。
テレビの害を、特に子供に及ぼすまいという殊勝な皆さんだ。
ところが、私のように俗な生活をしている者には、
テレビは害よりも、益のほうがはるかに大きい。
時々刻々移り変わる世界のさまざまな断層を、
リアルタイムで見せてくれるテレビは生活に欠かせない。

30年前、東京に出てきて買ったテレビは16型だった。
20年前、思い切って29型にした。
当時は消費税というものがなく、
ある程度以上の高額商品に物品税というものがかかっていた。
テレビの場合、30型以上だと15%ほどの物品税がかかっていたが、
そのことは一般にはあまり知られていなかった。
これをすべて一律3%(当時)にしたのは政府の英断だったと私は思うが、
当時は消費税を擁護しようものなら、マスコミに袋叩きにされる時代だった。

29型になって、画面の大きさと迫力には驚いた。
しばらくして横長のテレビが出て、多くの人びとが買うようになっても、
買い換えるつもりはまったくなかった。
白のシャツを、襟元がボロボロになっても着続け、とうとう
「先生、これはダメですっ!」
と掃除のおばさんに捨てられた私が、
どうしてよく映っているテレビを買い換えようか。
そうして気づいてみたら、20年が経っていた。

最近、色合いがややセピア色・懐古調となり、寿命が近いことを感じたので、
私は知人に相談した。
次にはどのようなテレビがよいか、
買い換えるに当たってどのような注意が必要か……。
テレビの前でそんな話をして出かけ、夜になって帰ってみると、
二度と再び、テレビがつくことはなかった。

昔、同じようなことがパソコンであった。
買い換えの相談をしたところすぐ、変調をきたし始めたのである。
普段はあまり面白みのないITの専門家が、
「パソコンって、すねるんですよ」とぼそりと言った。
テレビもすねることを、今回学んだ。
20年間、見てきたと思っていたテレビから、
実は、私のほうが見られていたのかもしれない。

その後しばらく、テレビなしの生活をしていたが、
ついに年末、清水の舞台から飛び下りる気持ちで新しいのを買った。
今度のテレビは、果して何年もつだろうか。
少なくとも10年、長ければふたたび20年、使うことになるかもしれない。
もしそのときまで生きていれば、私は70歳に近い。
これからやりたいと思っている人生の目標を、
どの程度クリアしているだろうか。
それから、安らかに死ぬことができるだろうか。
この20年があっという間だったように、
次の20年も、そして一回の人生も、
ぼやぼやしていればあっという間に過ぎていくに違いないと、私は思う。

メルマガ読者の皆さまには、つつがなく新年をお迎えのことと思います。
本年もよろしくお願いいたします。



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