『 奥飛騨慕情 その三(完結編)』(2017年11月プレマレター第37号)

 「奥飛騨慕情は完結しないのですか?」
 有り難くもそんなお問い合わせを何人かの方からいただいた。そこで調子に乗って続けさせていただくと、あの朴訥とした、なんともいえない雰囲気をかもしだす住職は、こんな話をしてくれた。
「うちは男の子の体が弱くて、高校に入ってもまだ、ふらふらしてたんです。そのうちに、一つのことが分かりました。聖天様の場合、お勤めを始めたら女性に触れてはならないということだったんです」
「それで……?」
「家内と相談をして、そのようにしました。すると、坊主のからだがめきめき丈夫になったのです」
(……)
 インドでも、同じような話を聞いたことがある。神々の礼拝の作法を、間違ってはならないというのだ。全能の神、至高神であれば、作法もなにもないかもしれない。だが、“神々”はそうではない。彼らは、いまだ相対的な存在であり、私たち同様、相対界の住人だ。なので“作法”という相対的なことが、時と場合によって重要になってくる。

 その後、住職は夢を見なくなったのだろうか。この問いに、彼はまた訥々と答えた。
「私は見なくなりました。ただ、家内が見るのです」
どうやら奥様は、それらの夢のなかでいろいろなことを教えてもらうらしいが、ちなみに、瞑想をお教えした生徒さんのなかにも、そのような方が何人かおられる。
 典型例として、彼(女)らは毎晩のようにきれいな光を見るようになる。光の様子は人によって違うものの、なかには神々が登場してこられる場合もある。そうして、いろいろなことを教え、導いてくださる。

 神々の導きといえば、実はわれわれは、この寺に最初から来ようと思ったわけではなかった。旅の途上、いくつかの寺社仏閣で瞑想してその静寂と清浄さにすっかり満足してしまったわれわれは、残りの時間は飛騨で有名な鍾乳洞を見学しようと思っていた。そこには、なぜか黄金の塊がある。
 鍾乳洞発見を記念してつくられた重さ100キロの金塊が、十年前、何者かによって盗まれた。後に犯人は逮捕されたものの、バーナーで溶かされ一部は売られたため、返ってきたのは計70キロほどの複雑な形の残滓であった。この金塊見たさに鍾乳洞を目指したが、途中、虫の知らせか、運転してくれていた人に私は聞いた。
「あの……、ナビ、入ってますよね……」
「入ってます!」
即答だったので、それ以上、考えないようにした。が、やはりそれが間違っていて、われわれはまったく別の方角に向かっていたのだった。そうして、このガネーシャ神を祀った寺のほうに、吸いよせられるように近づいていった。
(ガネーシャ神に呼ばれたのか。いや、金塊の神様に嫌われたか……)
 お寺で瞑想させてもらいながらそんなことを思っていたとき、住職の言葉が脳裏に浮かんだ。
(本当は毎週、浴油祈祷のごま油を新しいのに替えたいのですが、貧乏でして……)
帰りの費用を計算してみた。それだけ残して、何かあったとき用に準備していたお金もすっかりガネーシャ像の御前にお供えすると、これで旅が完結したという実感が湧いてきた。
 朴訥とした住職が、心なしか済まなそうに、しかし嬉しそうにしてお供えのお菓子をくださったとき、われわれは結局、ガネーシャ神にも金塊の神様にも、両方に愛されていたことを感じて寺を辞したのだった。