企画旅行

第14回『大いなる生命と心のたび』
コルベ神父と26聖人のふるさと〜長崎・島原〜

2007年4月6日〜8日


旅程

4月6日

羽田より空路長崎へ(大阪発及び現地集合も可能です)。
専用バスにて島原へ。
島原城、原城跡、武家屋敷等を巡礼・見学。
(雲仙温泉泊)

4月7日

専用バスにて雲仙を巡礼(雲仙地獄、雲仙教会等)。
長崎市内に入り、聖母の騎士修道院、日本26聖人殉教の碑、同記念館、中町教会、遠藤周作の名作『沈黙』の舞台となった西勝寺等。
この日は2007年復活祭前夜祭。希望者は夕食後、ミサに参加していただけます 
(長崎泊)

4月8日

専用バスにて長崎市内巡礼、観光(浦上天主堂、平和公園等)。
長崎ちゃんぽん発祥のレストラン「四海楼」にて昼食後、
大浦天主堂、グラバー邸、オランダ坂等を巡礼・観光後、空路羽田へ。

おもな見どころ

歴史を刻む島原

1637年、キリシタン弾圧と過酷な年貢の取り立てを続ける領主・松倉重政に対し、キリシタン大名であった有馬氏、小西氏の元家臣、領内のキリシタンたちが蜂起しました。総大将は、弱冠14歳の少年・天草四郎時貞。
反乱軍は、10万を超える鎮圧軍に対しよくもちこたえ、「投降すれば土地を与え、1年間年貢も免除する」との矢文に対しても一兵も投降せず、幕府を驚かせました。
  

当時の香りそのままの雲仙

硫黄の匂いとともに白濁した熱湯が吹き出る雲仙・地獄谷。
今では温泉卵等で有名ですが、かつて多くのキリシタンが、熱湯に浸けられても信仰を捨てず、殉教していきました。

聖者の息づく聖母の騎士修道院・コルベ記念館

1930年に来日し、布教活動を行なっていたコルベ神父は、ポーランドに帰国中、ユダヤ人をかくまい強制収容所に送られました。そのとき、1人の脱走者が出たため、10人が餓死刑に処せられることになりましたが、最後に選ばれた男がつぶやきました。「私には妻も子もいる……」
これを聞いたコルベ神父は、自らその身代わりとなることを申し出ました。通常、餓死刑では、受刑者たちは飢えと渇きで錯乱状態となって死んでいきますが、地下牢からはいつまでも祈りと聖歌が絶えず、看守たちはまるで聖堂のようだったと証言しています。
コルベ神父らが日本で過ごし、祈った「聖母の騎士修道院」を訪ねます。

日本26聖人記念館

1587年、秀吉により禁教令が出され、これに従わなかった24名のキリシタンが長崎に送られました。途中、彼らの世話をしていた2名が信仰を公にし、この列に加わりました。そのなかに12歳の少年ルドビゴ茨木がいるのをみた長崎奉行は、棄教を条件に彼を助けようとしましたが、少年はこれを丁重に断りました。
記念館では、26聖人の遺骨を特別に拝礼させていただく予定です。

歴史の証人・大浦天主堂

明治維新後、禁教令が廃止され、キリシタンたちも観音像に似せる必要のないマリア像を持つことができるようになりましたが、大浦天主堂に赴任したプチジャン神父は、信徒らを見つけることができませんでした。そうしたある日、祈っていた神父の後ろに人の気配がし、女が恐る恐る言いました。
「異人さま……サンタ・マリア様の御像はどちらに……?」
こうして、250年間隠れ続けたキリシタンが見出されることとなりました。

愛と哀しみの地・浦上

禁教令以来、受難の地となった浦上では、多くの信徒たちが殉教し、地下に潜伏していきました。
維新後、浦上の人びとも信仰を公にできる時代となりましたが、1945年8月9日、小倉に向けて飛び立った爆撃機は、天候不順のため長崎に進路を変えました。
彼らの落とした一個の爆弾により街全体が破壊されましたが、その中心に浦上天主堂がありました。

哀しみの西勝寺

小説『沈黙』に登場する背教者フェレイラは、実在の人物がモデルです。彼の住んだ西勝寺に入ると、まるでイエスの言葉が聞こえてくるようです。
『踏むがいい。おまえの足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ……』