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青山圭秀エッセイ  バックナンバー

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最新号 (第149号 2021年9月19日配信)

『政界今昔物語』-その1-

前回の東京オリンピックの年、1964年の9月9日、
国立がんセンターに一人の患者が入院した。
喉頭癌がすでに進行しており、末期だったが、
新聞には「前がん症状」と発表された。

10月10日、晴れてオリンピックの開会式に出席したその人は、
閉会式の翌日、内閣総理大臣の職を辞することを発表した。
戦後のわが国で「所得倍増計画」を打ち出し、これを実行に移しつつ、
4年を超える長期政権を担当した池田勇人である。

1899年生まれの池田は今日、郷里広島が生んだ戦後最大の政治家とされるが、
(宮澤喜一は池田大蔵大臣の秘書官だった)
30歳のある日、ひざの周りに小さな水ぶくれがいくつかできた。
水ぶくれは大きく膨れていくとやがて潰れ、出血、瘡蓋となり、
新たな水ぶくれを生むという悪循環を繰り返した。
池田は、夜も眠れないほどの痒みに苦しめられる。
病状は悪化の一途をたどり、大蔵省を休職、32歳のときには退官し、
広島の実家に戻らざるを得なかった。
その際にはミイラのように全身を白いガーゼに包み、
白い手袋と頭には黒頭巾をかぶっていた。これを見た親族は、
「原爆投下の後で見た患者よりひどい」と、息を呑んだという。

この「落葉状天疱瘡」は不治の病といわれ、医師らも匙を投げた。
池田は痛みと痒みで病床をのたうち回り、
「頼むから殺してくれ!」と叫んでいたという。
そこから、医師らを一様に驚かせたという奇跡的治癒をもたらしたのは、
家族による献身的な介護と同時に、島四国巡礼であったともいわれている。
その最中、光輝く神仏が現れて池田の回復を予言したという記述を、
子どものころどこかで読み、感動した記憶があるのだが、
今、それを見つけることができない。
政治家としては、そのようなことを言うわけにもいかなかったかもしれない。
それが“実際に”あったかどうかは別として、
どこまでも篤く帰依する家族の心が神仏に通じたものと私自身は思っている。

京大法学部出身の池田は、最初から大蔵省の出世コースには乗っておらず、
まして一度退官した後に出戻るということを余儀なくされたので、
最初は重要な会議にも呼んでもらえなかったという。
だが、運命とはいったい何なのか、
戦後やってきた駐留軍は官僚の上層部を“公職追放”としたため、
すべての官僚のなかで最大の権限を持つ大蔵事務次官の椅子は
思いがけなくも池田に回ってきた。
続いて、50歳で出馬した総選挙に初当選、吉田内閣の大蔵大臣に抜擢される。
初当選議員としては、後にも先にも例のない人事であった。
大蔵大臣、通産大臣として吉田、岸の両首相に仕え、
戦後の財政再建と外交を実質的に支えた池田は、
まるで神仏に予告されたとおり、1960年7月、内閣総理大臣に就任した。

1964年、退陣を表明した池田勇人は、
11月9日の議員総会で佐藤栄作を後継総裁として指名した。
佐藤は、それから7年半にわたり長期政権を担当し、
池田の「所得倍増計画」をそのまま敷衍・施行していった。
もともとこれは、1960年代の10年間でGDPを倍増させるというものだったが、
実際には、池田が就任した年、約25兆円であったGDPは、
佐藤内閣の末期、1972年には約83兆円となっている。
倍増どころか3倍を超える、脅威の高度経済成長と世界を驚かせた。

どのような政策、政権もそれを嫌う人びとが一定程度いるものであるが、
たとえば鉄道や道路、港湾や用水など、社会資本の整備や、
日々の生活の安全性、利便性の飛躍的向上について、
国民のすべてがその恩恵に与ったことは否定しようのない事実といえる(つづく)。