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最新号 (第110号 2017年9月5日配信)

『奥飛騨慕情 その二』

飛騨山中に、ガネーシャ神を祀った寺がある。
そこでは日々、敬虔な僧侶によって浴油祈祷が行なわれていると聞いて、
訪ねることにした。
小さな、慎ましやかな寺であると聞いていたのに、
着いてみると豪壮な伽藍が目の前にあった。
「へえ……大きいんだ」と思わず言うと、
「いえ、こちらのお寺なんです」と言って指さされたのは、
隣にたたずむ、なるほど慎ましやかな寺だった。
聞いていたより、さらに小さい。
そこにいる五十代前半くらいのご住職は、夕刻であったにもかかわらず、
おやおやと気さくに出てきて、お話をしてくれた。

「父にずっと言われていたことがあるんです。
 それは、この厨子を開けてはならない、
 決してガネーシャ神を見てはならないということでした。
 ひとたび見てしまったら、あと一生、厳しい行を続けなければならないと」
ご住職は、訥々として話し始めた。
私なら、そんなふうに言われれば、どうしても見たいと思うに違いない。
特に若いうちはそうだろう。
が、父親に言われたとおり、彼は厨子を開けることなく、
ガネーシャ神像を見ることもなく、四十代まできていた。
「ところが……」
と住職は言った。
「ある年の正月元旦、なんと私は厨子を開けていたのです」
(え……!)
それは、夢であった。住職は夢のなかで、(あ〜〜〜!!)と声を出したという。 
「はっきりした夢でした。
 ドキドキしながら、その後しばらく静かに暮らしていましたが……、
 ところが、同じ夢を私はもう一度見たのです」
決してしてはいけないと言われたことを夢のなかであれ二度してしまい、住職は思った。
(これは、厨子を開け、ガネーシャ神を礼拝しなさいということではないのか……)
そうして、遠方にいる老師に教えを乞い、礼拝の作法を習得し……、
ついに住職は厨子を開けたのである。

ガネーシャ神像は、古い和紙と金の布に包まれていた。
最後に浴油祈祷がされて何十年、または何百年が経つのか分からない。
像には、油が黒くこびりついていた。
これを丁寧に拭き清め、ごま油を入れる真新しい容器を用意して、
その日から浴油祈祷が始まった。
初めは早朝に行なっていたが、そのうちに、日付が変わってすぐ、
すなわち深夜零時に行なうようになった。
真言を唱えながら、七百回、心を込めてごま油を像におかけしていく。
慣れた今でも、一時間はかかるという。

聖天様は願いをかなえてくださることで有名である。
その神様に毎日これだけのお勤めを欠かさない住職は、どんなことを願うのだろうか。
「それは……、檀家さんたちからお願いされることですね」
「ご自分の願いは?」
その問いに、朴訥とした住職は、恥ずかしそうに笑って言った。
「それは……あんまりかなえてはいただけないです」
「え……、こんなに毎日礼拝しているのに叶わないって、たとえばどんなことですか?」
失礼かとは思ったが、勇気を出して聞いてみた。
「そうですね……」
住職はしばらく黙っていたが、ふたたび恥ずかしそうにこう言った。
「本当は毎週、ごま油を新しいのに替えたいのです。
 でも、ごらんのとおりの貧乏ですから……」
私はこの住職が、だんだん本当に好きになってきていた。