瞑想講座

体験談

<Art2>体験談

<Art2>を受講された皆さまからの【瞑想便り】と、青山圭秀よりのお返事をご紹介いたします。

言葉では表現しにくい、大きな変化があったように思います。瞑想後は、体が動かせない状態で、何かの存在感をずっと感じていました。

自分でも気づかないうちに、私たちは深い意識レベルに入っています。そんなときは、いつも申し上げているように、瞑想から出るのにやや長めに時間をとるようにしましょう。


<Art2>を習ってから、ときどき、瞑想中に気がつくと呼吸をしていません。そんなとき、静寂と幸福感に包まれていることに気づきます。

瞑想中は代謝が下がり、人は心身ともに深い休息の状態に入ります。気がつくと聖者のように呼吸をしていなかった、ということがありますが、そんなとき、私たちは気づいても気づかなくても、純粋意識を通過しています。


実は<Art2>で習った方法がうまくいかず、半ば諦めかけていたんですね(:_;)
でも受講して3ヶ月。最初は体の中にピンポン球くらいの種のようなものが生まれて、瞑想が深くなっていくと、大きな花がゆっくりと咲いていくような感覚になるんですね。その花に体全体が包まれていく感じがして、目を開けた後は恍惚状態に近く、朝まで爆睡します。この感覚は貴重でした。マントラは本当に生きてますね。不思議でたまらない(?_?)

ときには、最初のうち、瞑想がうまくいったと感じられないという人もいます。しかし、常に申し上げるのは、お教えしたマントラをお教えした方法で使うかぎり、必ずうまくいく、ということです。それは結果として、人生のなかで必ず現れてきます。そうして瞑想中の感覚としても、うまく行ったと感じられるときは速やかに訪れます。


最初10分くらい、全身に電流が流れたように感じました。それから、相変わらず白い光に包まれて幸せでしたが、あの電流のようなものは何だったのでしょう。
以前は足の裏からエネルギーが入ってきてしびれるような感覚でしたが、今回は体中にビリビリした細かい振動波が入ってきて、その中に体中が浸っているようでした。 自分の体と外との境界がなくなって、体がなくなったような不思議な感覚で、終わってからもしばらく力が入りませんでした。

この方法によって、心も体もさらに精妙なレベルに移行しようとし、その過程では電流が流れたような感覚や、しびれたような感覚が起こる場合があります。
悟りを啓いたヨーギやカトリックの聖女のなかには、法悦状態で感覚がなくなったり体が浮遊したりした人びとが実際にいますが、私たちの体も、徐々にそのような精妙さを得ていきます。
この瞑想はとても自然でやさしいので、心と体がその準備をしながら、徐々に慣れていきます。かりに変化が急激に感じられることがあっても、そのときはマントラを使うのを一時的にやめるか、瞑想からゆっくり出てくることで容易に対処できます。


「瞑想中に体調不良(首の筋が異常に凝って、気持ち悪くなる)が改善された」という件について、新たな発見がありました。
ある休日にこの症状で具合がよくない日があり、「葛根湯」を飲んでもあんまり良くならないなと思いながら、<Art2>で教えて頂いたヨーガの体操で状態が改善されないかな……って期待していたのですがダメで、(まあ、しょうがないな……って思いながら)瞑想に入って20分くらい経過した頃に、異常に凝って(冷たく温度が下がっていた)頭蓋骨後部の首の付け根の部分から、尾てい骨に向かって、一瞬のうちに、(脊椎の部分を)何かがストンと流れ落ちた感覚があり、その後、首筋の凝りが解消され、ものすごく体が楽になりました。
もしかしたら、これが「気の流れ」って言うものなのかな……と思いました。

チャクラ(人体にある精妙な神経叢)やナーディ(生体内の精妙な脈管)は、現代科学的には実証されていませんが、東洋医学においては厳然と存在するものです。チャクラを開発したりナーディを通すために、さまざまに複雑な方法が唱えられ、場合によっては危険なものもありますが、皆さんにお教えした<Art2>はそのための最も自然で速やかな技術です。


嗅覚が敏感になり、逆にコーヒー、紅茶を飲んでも眠れるようになりました。泉が湧くような不思議な感覚がして、力が湧いてくるようでした。

瞑想によって、私たちの内側には二つの方向性が芽生えます。一つは、精妙さ、または繊細さといってもよいかもしれません。それは、美や愛に対する、精妙で、至福に満ちた感覚でもあります。それに対してもう一つは、強さです。少しくらいの外界の変化にあっても影響されない強靱さ。この二つの性質は、絶妙のバランスをとりながら、意識の進化を支えます。


この方法で、今までよりずっとスムーズに瞑想に入れるようになりました。

人によっては最初、感覚が慣れなくて違いがよく分からない、という場合もあるかもしれません。しかし私たちの感覚は徐々に、しかし確実に精妙になっていきますので、心配する必要はありません。


<Art1>受講後、わりと平坦な瞑想状態が続いていたようですが、今回、階段を一段上がった感じがします。

少しずつ、体と心を純粋意識に慣らしていきましょう。


体調の悪いところや凝っているところに意識がいってしまって、瞑想に集中できないことがあります。仕事のことや人間関係の問題で、意識が外に向かってしまうのです。

瞑想中、体調の悪いところに意識が行くのは、普通のことです。それは雑念として感じられ、瞑想がうまくいっていないという感覚を与えます。ところが、瞑想が終わって体調がよくなっていることに気づいたとき、それが単なる雑念ではなかったことが分かります。


久しぶりに、瞑想中に光を見ました。その後、体の不具合が調整されていくのがはっきり分かりました。やることなすこと全てうまくいって、怖いくらいです。

物質的なことがうまくいっているだけだと、それはいつか終わります。物質には限りがあるからです。より深いレベルでうまくいっているとき、終わりの心配をする必要がありません。精神性のほうは、限りがないからです。


なぜか落ち着かなく、ドキドキするような感じがありました。

<Art1>においても、最初心臓がドキドキした、という方がおられます。この瞑想は、心と体にたいへん優しいですが、それでも速やかな進化の流れに入ろうとするとき、最初のうち体が慣れないということが稀にあります。通常は数日で収まりますので、心配する必要がありません 。(この方の場合もそうでした 。)


今まで瞑想してきたなかで、一番美しい光を見ました。マントラを想うのをやめてもなかなか消えず、「目を開けるのがもったいない……」と初めて思いました。

瞑想を終えるのがもったいないという体験は、ときどきするようになりますので、覚悟しておいてください(笑)。


(講座の日)昼食をとるために外に出た時、街が輝いて見えました。

外界に見るものはすべて、実は、私たちの内面を見ているからです。


瞑想明け、電車のなかで上司の悪口を言っていたおじさんに慈しみの想いが湧いて、(そんなに思い詰めなくてもいいんですよ……)と抱きしめてあげたくなったりして、マズイなと思ったりしました(笑)。

<Art2>の方法で瞑想することで、このような愛の心、慈しみの心はますます湧いてくるかもしれません。自分自身の、意識の進化が感じられると思います。でも、理性の方も同じように進化していきます。電車の中でおじさんを抱きしめてしまうようにはなりませんので、安心してください(笑)。


今回、瞑想していて、これまで「愛」を感じるときに感じるのと同じ感じがしました。瞑想してそうなるということは、「愛」が内側から出てくる…ということみたいです…ね。

愛についていろいろと論ずる本があるかもしれませんが、外から知識を入れても人の進化は限定的です。愛は、まさに感じ、体感し、実践されるべきものです。


いままで頭でだけ感じていた光を、今回の瞑想では全身で感じました。雑念があまり浮かばず、純粋意識=愛なんだということを感じ、確信しました。

初日から、この瞑想の本質を感じていただけるとは、とても幸せです。


おなかの底のほうから、炎が燃え上がってきて、ゆっくりと上のほうに動いてきました。炎は最上部まで上がっていきました。ハートを感じ、すべてがここにあると感じました。私は何も探す必要がない、ここで終わりだという感じがしました。愛を感じ、目の前に光があふれてきました。

内面の体験をますます深め、楽しんでください。


身近に起こる楽しい出来事の数々に、幸せを感じています。もったいないという気持ちでいっぱいです。

私もときどき、このような叡知は私たちにもったいないことなのではないかと感じることがあります。でも、もったいなくないので、思いきり楽しんでください。


至福の“鉱脈”を感じます。まだ完全に自分のものにらならないのですが……。

私たちはまだ、これを完全には自分のものにしきれていません。でもいずれ、そのときは必ずやってきます。


周りを見回すと、なんとか上司に気に入られたいとか、ちょっとでも収入を増やそうとあくせくする人が目立ち、なぜそんなにまでするんだろうと不思議です。むしろ、この世のことは虚しく感じられるのですが……。

この世の事物については、対象によって関心が薄れることがあるかもしれませんが、しかし、相対世界を生きる困難は軽減していくはずです。一方、精神的な事物については関心が深まりますし、精妙な幸福感もますます深まるばかりです。


そんなに頑張ってないんだけど、うまく人生が転がっていきます。

最小の努力で最大の効果を上げること。それがヴェーダの精髄です。


まったく不思議なテクニックでした。最初、言葉で聞いたときには理解できませんでしたが、やってみると分かると言われたとおり、やってみて分かりました。不思議です。

世の中には理性でなく、感性でしか分からないこと、というのがあるようです。でも、私たちの意識の進化に応じて、知性も進化していきます。いつか、こうしたことの神秘も、理解できるときがやってきます。


雑念は相変わらず色々と浮かんできますが、全般的に心が落ち着いてきました。<Art2>の理論は、前回<Art1>よりもっと興味深く聞くことができました。

完全に悟りを啓いてしまうまでは、私たちは瞑想中のさまざまな想念を楽しむことになります。それは雑念と呼ばれますが、そのようにして少しずつ意識は浄化されていきます。


瞑想に悪影響を及ぼしている原因の一つが今回はっきりしたので、改めてみようと思います。

意識が精妙さを増してくると、だんだん、何がどう、自分に影響を及ぼしているかがはっきり分かるようになってきます。食べ物、飲み物、習慣、仕事……すべてにおいてです。


ちょうど、チャクラとかクンダリニーの知識が気になっていたところでした。講義を聞いてすっきりして、よかったです。

体系的かつ整合的な知識を得ることは、意識進化の一つの重要な要素です。意識の進化と知性の進化は、相携えてやってきます。


私の中で起きた一番大きな変化は、良いことも悪いことも同じように見えるようになった、ということでしょうか。以前の私は、良いところしか見えない、見ない、というところがありました。でも今思えば、やはりそれはそれで、意識していなくても、頑張っていたのだと思うし、不自然なことだったと思うのです。
今は、様々なことの良い面も悪い面も、同じ量だけ自然と見えてきて、そうしてそれを静かに受け入れようとしている自分がいます。そしてそれらが色々と見えることで、自分の中の愛が減ることはないのだということをしっかり感じられるようになりました。これは、私にとっては大きな変化です。

ものごとをよいほうに解釈することは、それ自体正しく、生きていく上での一つの知恵です。しかしだからといって、相対界に悪がなくなるわけではありません。
たとえば、欲求がおきたとき自分はお腹がすいてないんだと思い込もうとしても、実際には栄養分が不足している等の理由があってお腹がすいているわけですから、後で必ず生理的、または心理的反動がきます。
欲求は、ないものと思い込んだり、抑圧したりすることによっては克服されません。欲求は、実際に相対界において成就してやるか、それができないのであれば、これをもっと深いレベルから包み込んで満足させてやるような意識状態を確立することによってのみ、超えることができます。 このことは、【バガヴァッド・ギーター】のなかで繰り返し説かれていますが、私たちはこうした哲学を頭で理解しようとするよりも、瞑想などによって意識を深化させるほうが、はるかに速やかにその状態に近づくことが可能になります。


先週ふと(最近のデータシステムの起動具合から)不安がよぎってデータチェックを行ってみたら、確かに出力されていないデータを発見してしまい、原因は(私自身は与り知らなかった)隣の部署側のデータ入力の約束事に問題があった・・・という事が発見され、改善できる事となりました。気づくのが早かったので、大きな問題が発生する前に解決する事ができました。数カ月前にも、「通常通りの業務を実行しているのに、データの動きがおかしい!!」という事に気づいてしまい、結果としてシステム上のバグを発見できることとなり、問題改善につなげる事ができました。やはり瞑想のおかげで、何らかの感性が鋭くなっていて、これを知らせてくれたのかも・・・?!って思いました。

毎日瞑想をしている私の知人も、あるとき不動産業者に騙されそうになりましたが、ほんのふとしたところで「変だ……」と感じて寸前で回避することができたと言っていました。<Art2>によって、より深いレベルに意識が確立されると、自然界全体に対してより広くて深い認識が得られますので、必然的にちょっとした異変にも気づくことができるようになります。会社の皆さんは、あなたを本当に有能な方だと感じ、感謝しておられることでしょう。そのようにして今まで以上に、仕事が円滑に回っていくようになるでしょう。


瞑想時の“テリトリー”が広くなった感じです。 たとえば電車などで、隣の人や壁(隅っこの席)と触れそうな状況であっても、 両隣が十分に空いているような余裕を感じます。

私たちはいつも、時間と空間によって限定された意識状態にありますが、実際には、私たちを真に限定するものはありません。瞑想によって、私たちは物質世界に限定されない無限の可能性と、精神の無限の自由を享受する、その準備段階に入っています。


とても静かな感じがします。以前よりも早く、精妙で深い状態へ入れるような・・・。瞑想中は、苦しいこと・つらいこと、しなければいけないことなど自分を取り囲んでいるものが、だんだんと消えていくので、とても気持ちがいいです。何もないってことがこれほど幸せであるとは、思ってもいませんでした。
Art1を教えていただいた直後は、瞑想中の気持ちいい状態と瞑想を終えたあとに襲ってくる現実のストレスの格差に悩んだものですが、日々瞑想を続けていくうちに、また、先生がおっしゃられている通り、瞑想から出てくる時間を長めにとることで、それも解消されました。
すこしづつですが、ちゃんとステップを踏んで、進化している実感があります。

そう、ちゃんとステップを踏んで、進化しています。しかも最短のステップを、正しく踏んでいます。それは少しずつに見えるかもしれませんが、後から考えてみると、驚くほど速やかで、効率的な道であったことに気づかれると思います。ただし、それまで続けていることが大切です。


行きつ戻りつしながらも、幸せの階梯は、 確かに上っているような気がします。 50歳になるのが、こんなに楽しいとは思ってもみませんでした。

いつも申し上げているように、瞑想を続けている私たちは、時間の流れを味方につけたも同然です。


いろいろなことが不思議なタイミングでやってくるのも 「自分を好きになってもいい時期」だからなのですね。

はい。人はいつも「自分を好きになっていい時期」なのですが、それが自ずと分かる時期が来るのです。


今まで以上に、澄み渡った静けさを感じました。現れてくる存在も、より近くに感じる対面で対話をしているような感じでした。尋ねたことに対する答えが、今回学んだ技術と関係のある方法で伝わってくるのです。この存在からは、マリア様のような、女性的な感じを受けます。

今回のテクニックは、愛や慈しみと深い関係にあります。これを使う人は、そのような深い“場”におりていき、これに浸り、調和しますから、そこから“現れてくる存在”から女性的な感じを受け取られるのもうなずけます。愛と慈しみは、女性性の精髄だからです。


先日教えていただいた<Art2>には、本当に驚きました。至福の感覚が、体の内側から押し寄せるようです。こうして、ひとつひとつ扉が開いていくたび、私は瞑想の恩恵を感じずにいられません。

こうして少しずつ皆さんに生命の秘密を解き明かしていくたび、私自身もヴェーダの計り知れない叡知に驚きます。そしてその恩寵に、心から感謝したいという気持ちになります。


私も一度華々しい光を見たり、驚くような体験をしたいとい気持ちもあって<Art2>を受講してみましたが、まだその兆候が現れません。先生、なにかアドバイスをください。

そのお気持ちはとてもよく理解できます。なぜかというと、私自身が、そういう体験をしない人間だからです。でも、健康になったり、人生がうまく展開したり、豊かな愛情生活を送り、深い充足感を得ることは、少なくともそうした体験と同じくらい素晴らしいと思うんですが、いかがでしょうか。いずれにしても、神の摂理といいますか、自然の叡知を、しばらくの間信じてみましょう。人それぞれに適切なことが、適切なとき、適切なかたちで、必ず起きてきます。